別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年4月13日水曜日

頼朝公墓前祭~鎌倉~

「頼朝公墓前祭」は、毎年4月13日、「源頼朝公報恩会」の主催により、鎌倉に武家政権を樹立した源頼朝の遺徳を偲んで行われる祭事です。

源頼朝の墓前にて、鶴岡八幡宮の神職が出席して執り行われます。


 大倉幕府跡


1180年(治承4年)、源頼朝は源氏再興の挙兵を果たします。

当時、伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた頼朝は、まず、伊豆国の目代の山木兼隆を討ち、相模国へ進軍します。

しかし、石橋山の戦い大庭景親らに敗れ、真鶴から海路安房へと渡りました。

安房で体勢を整えた頼朝は、その年の10月6日、大軍を率いて源氏ゆかりの地である鎌倉に入ります。

(参考:源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃

そして、大倉の地に御所を構えます。これが鎌倉幕府です。

当初の鎌倉幕府は大倉の地にあったため「大倉幕府」と呼ばれ、現在の清泉小学校一帯がその跡地です。

(参考:源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~





今年(平成23年)は、桜の開花が遅かったので、源頼朝墓へと通じる道の桜が満開です。

頼朝の墓は、大倉幕府跡北側の大倉山の中腹に建てられています。


 源頼朝墓
源頼朝墓への石段


この石段の上に源頼朝の墓があります。

頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、御家人稲毛重成の亡き妻の供養のため、相模川に架けた橋の開通式に出席しますが、その帰りに落馬してしまいます。

それが原因となって、翌年1月13日に亡くなったと伝えられています。

(参考:旧相模川橋脚


 頼朝公墓前祭

 頼朝公墓前祭


祭事は、頼朝の命日にちなんで4月13日に執り行われます。

現在の頼朝の墓は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、東隣の山の中腹には島津氏の祖島津忠久の墓もあります。

忠久は、頼朝の子とも伝えられ、祭事には島津家御当主も出席しています。


 頼朝公墓前祭


1189年(文治5年)、頼朝は、ここに聖観音を本尊とした「持仏堂」を建てました。

頼朝は、その「持仏堂」に葬られたと伝えられています。

のちに「持仏堂」が「法華堂」と称されるようになり、現在は法華堂跡として国の指定史跡となっています。

(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~


 白旗神社

源頼朝墓の下にある頼朝を祭神とする神社です。

江戸時代まで法華堂と呼ばれていましたが、明治の神仏分離によって白旗神社に改められました。


 源頼朝墓
源頼朝を讃える歌碑

源頼朝研究の第一人者である大森金五郎氏の歌が刻まれています。

「君出でて 民もしづまり 九重の塵もをさまる 世とはなりにけり」



 源頼朝墓



 鎌倉手帳


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