源頼朝の墓前にて、鶴岡八幡宮の神職が出席して執り行われます。
1180年(治承4年)、源頼朝は源氏再興の挙兵を果たします。
当時、伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた頼朝は、まず、伊豆国の目代の山木兼隆を討ち、相模国へ進軍します。
しかし、石橋山の戦いで大庭景親らに敗れ、真鶴から海路安房へと渡りました。
安房で体勢を整えた頼朝は、その年の10月6日、大軍を率いて源氏ゆかりの地である鎌倉に入ります。
(参考:源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃)
そして、大倉の地に御所を構えます。これが鎌倉幕府です。
当初の鎌倉幕府は大倉の地にあったため「大倉幕府」と呼ばれ、現在の清泉小学校一帯がその跡地です。
(参考:源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~)
源頼朝墓への石段
この石段の上に源頼朝の墓があります。
頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、御家人稲毛重成の亡き妻の供養のため、相模川に架けた橋の開通式に出席しますが、その帰りに落馬してしまいます。
それが原因となって、翌年1月13日に亡くなったと伝えられています。
(参考:旧相模川橋脚)
祭事は、頼朝の命日にちなんで4月13日に執り行われます。
現在の頼朝の墓は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、東隣の山の中腹には島津氏の祖島津忠久の墓もあります。
忠久は、頼朝の子とも伝えられ、祭事には島津家御当主も出席しています。
1189年(文治5年)、頼朝は、ここに聖観音を本尊とした「持仏堂」を建てました。
頼朝は、その「持仏堂」に葬られたと伝えられています。
のちに「持仏堂」が「法華堂」と称されるようになり、現在は法華堂跡として国の指定史跡となっています。
(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~)
源頼朝墓の下にある頼朝を祭神とする神社です。
江戸時代まで法華堂と呼ばれていましたが、明治の神仏分離によって白旗神社に改められました。
源頼朝を讃える歌碑
源頼朝研究の第一人者である大森金五郎氏の歌が刻まれています。
「君出でて 民もしづまり 九重の塵もをさまる 世とはなりにけり」