1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で目代の山木兼隆を討ち取った源頼朝は、相模国に向けて進軍します。
しかし、石橋山の戦いで敗北し、海路で安房国へと逃れました。
途中の海上で、偶然にも三浦義澄らと出会ったともいわれています。
房総半島で、千葉常胤、上総介広常が従うと、畠山重忠らの武蔵国の武将もつぎつぎに従い、大軍をもって鎌倉入りを果たしました。
そして間もなく平維盛を総大将とする頼朝討伐の大軍が、駿河国まで迫ってきます。
さて、源頼朝の挙兵が都に到達したのはいつの事だったのでしょう。
頼朝が挙兵してからすぐに「頼朝討伐軍」が派遣されていたら、頼朝は大軍を率いて鎌倉に入ることができたのでしょうか。
都に頼朝挙兵の報が届いたのは9月の初めだと言われています。
右大臣九条兼実は日記『玉葉』に・・・
「謀叛の賊義朝の子で長年伊豆国に流罪とされていた者が、最近は悪事をこととし、知行国主の使者を攻撃したうえ、伊豆・駿河両国を横領してしまった。昔の平将門のように謀叛しようというのであろう」
と記されています。
9月5日、平維盛を総大将とする討伐軍が組織されます。
しかし、準備が進まず、9月22日にようやく福原を出発したといいます(当時、平清盛によって都が福原に遷されていました。)。
そして平安京の出発の時をめぐって、日が悪いとか、忌むとか忌まないとかの議論で7日間が費やされ、平安京を出発したのが9月末でした。
討伐軍が無駄な時間を費やしている間・・・、
◎ 源頼朝は房総で体勢を立て直した。
◎ 木曽義仲は信濃国で挙兵し信濃国を収め、上野国へ進出。
◎ 甲斐国の武田信義が甲斐国、信濃国の諏訪を征服。
という急展開をみせています。
全国の源氏に令旨を発した「以仁王の生存説」までが乱れ飛ぶようになっていました。
討伐軍は東に下るほどに確かな情報を入手するようになります。各国での謀叛は、討伐軍内部に大きな動揺をもたらしたことと思います。
また、実説とともに虚説まで飛び交っていたので、思うような徴兵ができず、糧食の調達もできない状況でした。
(この年はひでりによる凶作で食料不足だったといいます。)
そして、10月13日、駿河国入った討伐軍は、何とか富士川の西岸に布陣しますが、多くの者が寝返ったり、逃亡したりしてしまったようです。
もともと、士気が上がっていなかったのですから仕方ない事でしょうね。どうやら半数以下の兵数になってしまったようです。
こんな状況ですので、平維盛は撤退を決意していたといいます。
10月20日、すでに逃げる気持ちになっていた軍に襲いかかったのが「水鳥の飛び立つ音」でした。
「逃げの姿勢」の軍ですので「敵軍の夜襲」と勘違いすれば一気に逃げるでしょうなぁ~。
大将の無能ということがよくいわれますが、平維盛という人物がどうこうは別として、一所懸命の精神で戦う東国武士と、そんな苦労は一切関係なく育ったおぼっちゃまとでは、完全に違うと思いますし、おぼっちゃま方には、その行動の方法が全くわからなかったと思います。
これから世を変えようと考えている者と、苦労せずに、このまま我が儘の言える状態を放置しようとしている者との違いが大きかったでしょう。
のちの明治維新にも同じ事が言えるのかと思います。
(富士川の古戦場)
こんな事で、源頼朝は貴重な勝利を手にしています。
頼朝は勢いに乗って、逃げた平氏軍を追おとしますが、千葉常胤、三浦義澄、上総介広常らに、東国の地盤強化が先と反対されて思いとどまったと伝えられています。
その後、すぐに常陸国の佐竹氏を討ち、東国の地盤を固めていきます。