鶴岡八幡宮の赤橋(太鼓橋)から、亀ヶ谷、仮粧坂を経て武蔵国へと向かうための道と考えられています。
鶴岡八幡宮三の鳥居前
赤橋(太鼓橋)が起点とされていますが、現在、太鼓橋の前には三の鳥居があります。
~参考~
鶴岡文庫に展示されている鶴岡八幡宮の模型では、太鼓橋の後ろに鳥居が建てられています。
この鳥居が現在の三の鳥居なのでしょうか・・・。
鎌倉十井の一つ。
「鉄観音像」の伝説が残され、江戸時代までは井戸の前にあった鉄観音堂に、井戸から掘り出された観音像(頭)が安置されていました。
明治の神仏分離によって観音堂は廃止され、観音像は東京人形町の大観音寺に安置されています。
鉄ノ井から鎌倉駅方面に進み、窟小路へと入ります。
この標識では、川喜多映画記念館の方角です。
源頼朝が鎌倉入りする前からあったといわれています。
明治まで頼朝が信仰したという地蔵像が安置された松源寺に管理されていました。
松源寺は神仏分離により廃寺となっています。
地蔵像は「日金地蔵」と呼ばれ、現在は横須賀の東漸寺に安置されています。
鎌倉五山第三位の寺。
我が国臨済宗の開祖栄西を開山に迎え、北条政子が建立したと伝えられています。
今小路は、門前の勝ノ橋が起点とされていますが、古くは武蔵大路から続く道です。
戦国武将太田道灌の旧跡に建てられました。
英勝寺を建立した英勝院は、太田道灌の子孫にあたります。
徳川家康の側室として知られ「お勝の局」と呼ばれていました。
壽福寺門前にあったという勝ノ橋は、英勝院が架けたともいわれています。
英勝寺の少し先、JR横須賀線沿いの「やぐら」は、『十六夜日記』を著した阿仏尼の墓と伝えられています。
阿仏尼墓(やぐら)のすぐ隣には、廃寺となった智岸寺のものと伝えられる稲荷社があります。
英勝寺が建立される前まで、この辺りには智岸寺という尼寺がありました。
智岸寺には東慶寺の旭山尼が隠居したとも伝えられています。
瑞泉寺の「どこも苦地蔵」は、智岸寺の地蔵堂に安置されていたものです。
(※旭山尼は鎌倉尼五山第一位だった太平寺の青岳尼の妹です。)
英勝寺門前のJR横須賀線踏切を渡ると、「扇谷上杉管領屋敷跡」の石碑が建てられています。
室町時代に関東管領の職に就いた上杉家は、四家に分かれていましたが、もとは鎌倉幕府六代将軍宗尊親王に従って京より下向した上杉重房からはじまっています。
上杉の管領屋敷から扇川沿いに進みます。
標識を参考すると、こんな位置関係になります。
まずは浄光明寺に行って、再びここに戻って、薬王寺、亀ヶ谷坂切通方面へ進みます。
扇川沿いの道から少し入ると、六代執権北条長時によって創建された真言宗の浄光明寺があります。
本尊の阿弥陀三尊像は鎌倉地方独特の土紋装飾が施された仏像です。
地蔵菩薩立像は「矢拾い地蔵」と呼ばれ足利直義の守り本尊と伝えられています。
足利尊氏は、この寺で後醍醐天皇を裏切る覚悟をしたといいます。
境内には阿仏尼の息子冷泉為相の墓があります。
浄光明寺の先には、鎌倉十井の「泉ノ井」や、多宝寺跡に建てられたという妙伝寺もあります。
千葉常胤の次男相馬次郎師常の墓と伝えられています。
扇 川
ハナショウブがきれいな川で、蛍もいるそうです。
源頼朝の長女大姫の守本尊とされる地蔵菩薩像が祀られています。
岩船地蔵堂を右に折れると鎌倉七口の一つ亀ヶ谷坂です。
標識を参考にするとこんな位置です。
海蔵寺方面へ進みます。
JR横須賀線のガードをくぐると、こんな位置関係になります。海蔵寺・仮粧坂切通方面へ進みます。
突き当たりが臨済宗建長寺派の海蔵寺です。
この辺りには、叡尊が滞在したという新清涼寺釈迦堂や畠山国清が創建したという法泉寺があったといいます。
海蔵寺の手前を左に折れると仮粧坂です。
標識を参考にするとこんな位置です。
源頼朝を暗殺しようとした平景清が閉じこめられた牢跡と伝えられています。
景清の娘の人丸姫の伝説も残されています。
鎌倉七口の一つ。
仮粧坂は、戦略上拠点であったと同時に、その山上は商業地区として賑わった所です。
1266年(文永3年)、京都に送還される宗尊親王は、赤橋(太鼓橋)を出て武蔵大路を通って、佐助の北条時盛邸に入ったことが『吾妻鏡』に記されています。
この仮粧坂を越えて佐助に下ったものと考えられます。