別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年12月27日火曜日

「鎌倉殿の13人」~合戦・謀反・暗殺~






以仁王の令旨と源頼朝

1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子以仁王は、源頼朝をはじめとする全国の源氏に平家打倒の令旨を発します。


平家打倒の命令書~以仁王の令旨~

4月27日、伊豆国の北条館に令旨が到着。


山木館襲撃~源頼朝の挙兵~

8月17日、頼朝挙兵。

最初の標的は、伊豆国の目代山木兼隆


石橋山の戦い

8月23日、石橋山大庭景親伊東祐親らと戦いますが大敗。


小坪・衣笠合戦

衣笠城では、畠山重忠河越重頼江戸重長に攻撃された三浦義明が討死。


源頼朝鎌倉入り

8月28日、頼朝は真鶴から船出、翌日、安房国に上陸。

再挙した頼朝は10月6日、鎌倉入りを果たします。


富士川の戦い

10月20日、富士川の戦いで平家軍を敗走させます。

黄瀬川の宿では源義経との涙の対面がありました。



富士川の戦いに勝利した頼朝は、敵対する常陸国の佐竹氏を攻め、11月5日、上総広常の活躍で金砂城を落とします。


墨俣川の戦い

1181年(治承5年)3月10日、頼朝の叔父源行家が挙兵。

墨俣川で敗れ、頼朝の弟義円が討死。


野木宮合戦

1183年(寿永2年)2月、頼朝の叔父志田義弘は、頼朝討滅を企てますが、野木宮合戦で敗走し、木曽義仲と合流しています。


上総広常暗殺

12月、頼朝は挙兵に功のあった上総広常梶原景時に命じて暗殺します。


宇治川の戦い

1184年(寿永3年)1月20日、源範頼源義経木曽義仲を滅ぼします。


一ノ谷の戦い

2月7日、範頼義経一ノ谷に拠る平家を攻めます。


木曽義高の誅殺

4月26日、鎌倉に人質として置かれていた木曽義仲の嫡男義高が誅殺されます。


三日平氏の乱

一ノ谷の戦い後に起こった伊賀・伊勢の平家残党の反乱を義経が鎮圧。


屋島の戦い

1185年(元暦元年)2月19日、屋島に拠る平家を義経が奇襲。


壇ノ浦の戦い

3月24日、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。


源義経の腰越状

5月、義経は、壇ノ浦で捕えた平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。


源義経の謀反

京都に戻った義経は、叔父で頼朝から追討令が出されていた源行家に接近。


土佐坊昌俊の源義経襲撃

10月17日、頼朝の命で土佐坊昌俊が義経の堀川館を襲撃。


吉野山

11月3日、義経は都を落ち、九州へ逃れようとしますが、11月6日、摂津国大物浦で難破。

吉野山へ逃れます。


静の舞

1186年(文治2年) 4月8日、義経と吉野山で別れた静御前は、鎌倉の鶴岡八幡宮で義経を慕う舞を披露。


源義経最期の地

1189年(文治5年)閏4月30日、奥州平泉衣川館で、源義経自刃!


奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~

9月3日、奥州平泉の藤原泰衡が討たれたことで、奥州藤原氏が滅亡。


富士裾野の巻狩り

富士裾野の巻狩りは、1193年(建久4年)、征夷大将軍となった頼朝が催した大軍事演習。


曽我兄弟の仇討ち

巻狩りの最中に起こったのが曽我兄弟の仇討ち

曽我兄弟が父の仇工藤祐経を討ち取りました。


源範頼の謀叛

曽我兄弟の仇討ちをきっかけに頼朝の異母弟範頼は謀反を疑われてしまいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源頼朝亡き後、幕府政治で最も重要な訴訟裁決が将軍の手から離れたことで、幕府の実権も御家人に移ることとなりますが、それは有力御家人間の対立を生むことになります。


梶原景時の変

1200年(正治2年)正月20日、鎌倉を追放された梶原景時が、上洛途上の駿河国で討死。


建仁の乱

建仁の乱は、1201年(正治3年)に梶原景時の庇護をうけていた城氏の反乱。

巴御前と並び称される女武者・板額御前が活躍。


阿野全成の誅殺

1203年(建仁3年)6月23日、謀反を企てたとして捕えられた阿野全成が下野国で八田知家に誅殺されます。


比企能員の暗殺・比企氏滅亡

9月2日、比企能員北条時政に暗殺されます。

比企一族も北条義時らに攻められて滅亡。


三日平氏の乱

1204年(元久元年)4月、平賀朝雅が伊賀・伊勢の平家残党の反乱を鎮圧。


源頼家の暗殺

7月18日、比企能員の変後、伊豆の修禅寺に流されていた源頼家が暗殺されます。


畠山重忠の乱

1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略により畠山重忠が滅亡。


牧氏の変

閏7月20日、北条時政が後妻牧の方平賀朝雅を将軍に据えようと企てて鎌倉を追放されました。


和田合戦

1213年(建暦3年)5月3日、北条義時打倒の挙兵をした和田義盛が滅亡。

この合戦で義時は、のちに建長寺明月院浄智寺円覚寺東慶寺といった禅寺が建ち並ぶ山内荘を手にしています。


源実朝の暗殺

1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した源実朝が甥の公暁に暗殺されます。

後鳥羽上皇と良好な関係にあった実朝の死は、幕府と後鳥羽上皇の関係を急速に悪化させます。


北条義時と戌神将の伝説

源実朝が暗殺された日

実朝が暗殺された日は雪でした。


承久の乱

1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇北条義時追討の院宣を下します。


北条政子の言葉~承久の乱~

北条政子の出撃命令により、幕府軍は19万騎で京都に向けて進軍し、6月15日に入京。

後鳥羽上皇は隠岐に流されました。


宇治川の戦い~承久の乱~

瀬田の合戦~承久の乱~


北条義時の最期

1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が死去。


伊賀氏の変

伊賀氏の変は、義時の死後、伊賀光宗と義時の後妻伊賀の方が起こした政変。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


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2022年12月26日月曜日

八幡太郎に一番近い武将:新田義重~徳川家康の祖?~


新田義重の墓



上野国の武将新田義重は、八幡太郎義家の孫。

源頼朝挙兵した時は、頼朝に対抗して軍兵を集めるなど鎌倉幕府創設に非協力的だったようです。

そのため、新田氏は幕府での要職に就けなかったのだといわれているようです。


ただ、八幡太郎に一番近い者として尊敬され、義重が亡くなって間もない時に蹴鞠をする源頼家北条政子

「源氏の長老が亡くなって二十日も経っていないのに蹴鞠とは・・・」

と叱責したのだとか。


そして・・・

徳川家康は義重を祖と称したのだといいます。



徳川氏発祥の地

松平氏発祥の地

家康生誕地


東照宮



徳川家康


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2022年12月24日土曜日

浄瑠璃物語~源義経と浄瑠璃姫の伝説~


三河国の国司・兼高長者の夫婦には浄瑠璃と呼ばれる美しい姫がいた。

1174年(承安4年)、奥州平泉藤原秀衡を頼るために京都を発った源義経が姫の住まいのある矢作宿に立ち寄ると・・・

姫の奏でる琴の音が聞こえてきた。

都を懐かしく思った義経は、携えていた笛「薄墨」をとって、琴に合わせて吹いたのだという。

そして、二人は惹かれあう仲に。


数日後、義経は奥州へと旅立つが、駿河国の吹上の浜で大病に。

義経を助けに行った浄瑠璃姫は再会を喜ぶのだが・・・

義経は再び奥州へと旅立ってしまう。


矢作に戻った姫は・・・

平家の世に源氏と関わったことで親から勘当され、庵に幽閉されてしまう。

義経との再会を心の支えにしてきた姫だったが、悲嘆にくれて菅生川(乙川)に身を投じてしまったのだという。



誓願寺

誓願寺は、浄瑠璃姫が住んでいた矢作宿にある寺。

義経が浄瑠璃姫に贈ったとされる「薄墨」が残されているらしい。



浄瑠璃寺

浄瑠璃寺(光明寺)は、浄瑠璃姫の庵があった場所に父兼高長者が建立した安西寺が始まり。

義経と浄瑠璃姫の画像と姫の守本尊の薬師如来が安置されている。



浄瑠璃姫の墓

浄瑠璃姫の庵は龍頭山にあったといわれ、岡崎城が築城されたことで安西寺は移転し、その場所は浄瑠璃曲輪と呼ばれたのだという。

浄瑠璃寺(光明寺)の南には浄瑠璃姫の墓といわれる塚がある。


浄瑠璃淵

浄瑠璃姫が身を投じたという菅生川(乙川)。

その堤防には句碑が建てられている。


句碑

「散る花に 流れもよどむ 姫ヶ淵」


成就院

成就院は、浄瑠璃姫の菩提を弔うために侍女の冷泉が建てた冷泉寺を始まりとする。


浄瑠璃姫の墓
(成就院)



安心院

安心院も浄瑠璃姫の菩提を弔うために建てられたのだという。








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歴史めぐり源頼朝

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特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

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2022年12月23日金曜日

浄瑠璃姫と源義経の伝説~鳳来寺~


東海道の矢作宿の長者・兼高は、子が授かるようにと婦人とともに鳳来寺に籠って祈願。

すると、満願の日、婦人の夢枕に白髪の老翁が現れて、

「望みどおりに子を授ける。

女の子が生まれたら浄瑠璃と名づけよ」

と告げたのだという。

間もなく婦人は身籠り、女の子が誕生して浄瑠璃姫と名づけられた。

すくすと育った姫は評判の美人となり15歳の春を迎える。


源義経と浄瑠璃姫



1174年(承安4年)、奥州平泉藤原秀衡を頼るために鞍馬寺を出奔した源義経は、途中の矢作宿で兼高長者の家に宿を取った。

その夜の事。

浄瑠璃姫の奏でる琴の音が聞こえてきた。

その素晴らしさに引かれた義経が姫の琴にあわせて笛を吹くと、姫もまた義経の笛に引かれ・・・

いつしか二人の間に愛が芽生えた。


しかし、義経は奥州へと落ち延びる途中。

再開を約束して義経は旅立つが・・・

半年を過ぎても義経からの連絡がない。

「半年過ぎても私が戻らないときは、鳳来寺の千寿ガ峯で待つように」

と言い残していた義経。

その言葉を信じて浄瑠璃姫は千寿ガ峯に。

庵を建てて義経を待ち続けていると、義経が来るという噂が・・・

喜んだ姫だったが、道行く人に尋ねてみると、3日前ほどに通り過ぎて行ってしまったとのこと。

悲しんだ姫は庵のほとりで自害して短い一生を終えたのだという。











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