別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年8月26日金曜日

源頼家と修禅寺・修善寺


1203年(建仁3年)9月29日、鎌倉から追放され伊豆の修禅寺へ出発した源頼家

『吾妻鏡』によると・・・

先陣の随兵は百騎。

次に女騎が十五騎。

次に神輿三帳。

次に小舎人童一人

後陣の随兵は二百餘騎

だったのだという。



修禅寺は弘法大師の創建と伝えられる古寺。

頼家の叔父源範頼も修禅寺に幽閉されています。


狩野川

修禅寺に幽閉された頼家は、寂しさを慰めるため狩野川と桂川の合流点にある月見ヶ丘で月を眺めていたのだといいます。


月見ヶ丘と桂川

時には里の子どもたちと遊び、我が子のことを思い出していたのだとか。



頼家修禅寺に幽閉された翌年7月18日に暗殺されてしまいますが、悲しんだ里人は月見ヶ丘に地蔵尊を建てます。

それが修善寺橋の袂にある愛童将軍地蔵



横瀬八幡神社は、もとは月見ヶ丘にあったという社。

相殿に頼家が祀られています。



修禅寺には「頼家の仮面」が伝えられています。

舞楽面のようですが、新歌舞伎作家の岡本綺堂は「頼家の仮面」を拝観して『修禅寺物語』を描いたのだそうです。


虎渓橋

虎渓橋(こけいばし)は、修禅寺の門前を流れる桂川に架けられた橋。

『修禅寺物語』では、この橋の袂で頼家の側女となった桂が「若狭局」という名を与えられる・・・ 



筥湯は、頼家が入浴したという外湯。



1204年(元久元年)7月18日、頼家は刺客に襲われて亡くなります(享年23)。

筥湯に入浴中に襲われたという説も。

「征夷大将軍左源頼家尊霊」と刻まれた石柱は記念碑。

墓はその裏にある小さな五輪塔。



頼家の家臣十三士の墓。



指月殿は北条政子が頼家の冥福を祈って建立した経堂。






源頼家


修禅寺


比企能員の暗殺・比企氏滅亡


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畠山重忠の父重能


畠山重忠産湯の井戸
(深谷市:畠山重忠公史跡公園)


畠山重忠の父重能は、武蔵国留守所総検校職を世襲していた秩父氏の出身。

秩父氏の嫡流が武蔵国男衾郡畠山に進出してきたのは重能と時といわれているが、その詳細については不明。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1155年(久寿2年)、源義朝の子義平と結んで、武蔵国比企郡にあった源義賢の大蔵館を襲撃。

義賢とともに、義賢に娘を嫁がせていた叔父の秩父重隆を討ち取ります。

このとき、義賢の次男・駒王丸(のちの木曽義仲)を匿い、密かに斎藤実盛に託して信濃国の木曽谷へ逃がしたのだと伝えられています。



(埼玉県嵐山町)

源義賢は、兄義朝に対抗するため、武蔵国比企郡大蔵に館を構えて勢力を伸ばしつつありました。

義仲産湯の清水
(埼玉県嵐山町)

木曽義仲は、武蔵国の大蔵館で誕生したと考えられ、鎌形八幡神社境内に湧き出す清水は、義仲の産湯に使用されたと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1159年(平治元年)の平治の乱源義朝平清盛に敗れると平家の家人となった重能。

1180年(治承4年)に源頼朝挙兵すると、重忠は頼朝に仕えますが、大番役で京にいた重能は、平宗盛に引き止められていたようです。

『吾妻鏡』によると、清盛の信頼が厚かった平貞能が宇都宮朝綱・畠山重能・弟の小山田有重らを開放するように進言したことで、頼朝に従うことになったのだといいますが・・・

頼朝挙兵後の重能の詳細は不明です。



(深谷市:畠山重忠公史跡公園)




畠山重忠


畠山重忠の乱








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2022年8月24日水曜日

三代将軍源実朝の正室・坊門姫(西八条禅尼)


『吾妻鏡』によると・・・

1204年(元久元年)8月4日、源実朝の正室を京都から公卿の娘を迎えることが決まります。

幕府内では足利義兼の娘が候補にあがっていましたが、実朝の強い希望があったのだそうです。

選ばれたのは前大納言坊門信清の息女・坊門姫。

実朝直々の希望で風貌の良い若い勇敢な武士が迎えにいくことになったのだとか。


10月14日、坊門姫を迎えるため北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保・八田知尚・和田宗実・土肥惟光などが上洛し、12月10日、鎌倉に到着しました。


坊門姫の父坊門信清は後鳥羽上皇の母方の叔父。

したがって坊門姫は後鳥羽上皇の従兄妹(いとこ)。

子には恵まれませんでしたが、実朝とは仲が良かったとされ、尼御台の北条政子も坊門姫を立てていたのだと伝えられています。



(伊勢原市)

1211年(建暦元年)7月8日、政子と参詣した薬師如来の霊場・日向薬師。


本瑞寺
(三浦市)

1212年(建暦2年)3月9日、実朝政子と坊門姫を連れて三崎の御所へ出かけ、船中で鶴岡八幡宮の稚児たちの舞楽舞を楽しみました。

三崎の御所とは、源頼朝椿の御所桜の御所桃の御所


(鎌倉)

永福寺頼朝が建立した寺院。

1217年(建保5年)3月10日、実朝は坊門姫と同じ牛車に乗って花見に出かけています。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1219年(建保7年)1月27日、実朝が暗殺されると、翌日、寿福寺退耕行勇を戒師として出家。

京に戻って、1222年(貞応元年)、実朝の菩提寺・遍照心院(現在の大通寺)を建立しています。

西八条禅尼と呼ばれた坊門姫は、1274年(文永11年9月18日に死去(享年82)。

寺に何か問題が起こったときは安達泰盛に訴えるよう遺言していたそうです。

泰盛は、実朝に尽くした安達景盛の孫。




大通寺(万祥山遍照心院)は、坊門姫が実朝の菩提寺として建立したことに始まる。


(高野山)

高野山金剛三昧院は、政子の発願で頼朝の供養のために建立された禅定院を始まりとする寺院。

実朝が暗殺されると、菩提を弔うために安達景盛が奉行として伽藍を整備し、金剛三昧院と改称されました。

景盛の孫泰盛も金剛三昧院の発展に尽くしています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると・・・

1221年(承久3年)の承久の乱では、坊門姫の兄坊門忠信が葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能とともに合戦の張本として捕らえられます。

葉室光親・葉室宗行・源有雅・藤原範茂・一条信能は処刑されますが、坊門忠信は北条政子の申し入れで許されています。

📎藍澤五卿神社



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