別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年7月31日日曜日

源頼家の念仏禁止令~称念房の伝説~


1200年(正治2年)5月12日、源頼家は、「念仏の禁止令」を出します。

そして、頼家に命じられた比企弥四郎(時員)は、念仏僧14名を捕らえて、政所の橋の傍らで袈裟を剥ぎ取り、順番に焼いていきました。

橋には、大勢の見物人が集まり、皆頼家の愚行を非難したそうです。




「政所の橋」とは「筋違橋」のことらしい。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ところが、僧の中に称念房という者がいて、比企弥四郎にこう告げます。


「俗人の束帯と僧侶の袈裟とは同じ黒を用いることになっている。
どうして黒衣の着用を禁止されるのか。

総じて、今の世の政治のありさまは、
仏の道にも、世の中の道理のいずれにもはずれたもの。

これは滅亡の元凶でしょう。

しかし、称念の袈裟は、正しい道を表した袈裟であるので、
焼くことはできないでしょう」


その言葉どおり、

称念の袈裟を焼くことは出来なかったといいます。

称念は、もとのとおり袈裟を着込みどこへともなく消えて行きました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

念仏禁止令は、その後すぐに中止され、世間の笑いぐさになったということです。


源頼家
(京都:建仁寺蔵)



阿野全成の誅殺

比企能員の暗殺・比企氏滅亡








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鎌倉殿源頼家は蹴鞠に夢中!北条泰時は伊豆で徳政!


『吾妻鏡』によると・・・

1201年(建仁元年)9月7日、鞠の名人・紀内所行景(きないどころのゆきかげ)が京都から鎌倉に到着します。

源頼家後鳥羽上皇に願い出て実現したのだそうです。

9月9日、大江広元に連れられて御所に参った行景は、頼家と対面し、銀剣を賜っています。

そして9月11日、紀内所行景が鎌倉にきて初めての蹴鞠が催されます 。

頼家に付き合ったのは、北条時連(時房)・紀内所行景・冨部五郎・比企時員・肥多宗直・大輔房源性・加賀房義印ら。


9月15日は鶴岡八幡宮放生会

頼家は、この日も早朝に蹴鞠を催したのだといいます。

鶴岡八幡宮の放生会は、8月15日でしたが・・・

8月11日に襲来した台風で、鎌倉の家々が押し潰され、港では船がひっくり返され、鶴岡八幡宮寺の回廊や八足門を始めとする仏閣・塔廟が倒れてしまい、万のうち一つも災難に合わない所はなかったというほどの被害を受けてしまいます。

下総国の葛西郡の海辺では、潮が押し寄せて農民や漁師などの家が巻き込まれ、一千余人が波にまかれて溺れ死んだのだといいます。

そのため放生会が延期されていました。


8月23日にも台風が襲来。

二度の台風で、五穀は全滅してしまいます。


9月20日、御所で蹴鞠。

この日の『吾妻鏡』は、世間の窮状を顧みず連日蹴鞠に精を出している頼家を批判して「凡そ(およそ)此の間政務を抛ち(なげうち)、連日の此の藝を專らに被(され)・・・・」と記しています。

9月22日も蹴鞠。

この日、北条泰時は頼家の近習の一人中野能成を呼び

「蹴鞠は、奥深い藝なので夢中になることに文句はないが、二度の台風で、寺社・民家が破壊され、五穀は不作となり、飢饉に陥っているときなので、慎むべき」

と語ります。

これに対して頼家は、父の義時や祖父の時政を差し置いて忠告してきたことに機嫌を損ねたようです。

泰時を心配した近習の親清法眼は、10月2日、頼家の機嫌が直るまで病気と称して、しばらく伊豆国へ帰っているように助言したのだそうです。

翌日、泰時は伊豆国へ下向。

ただ、これは頼家が機嫌を損ねたからではなく、飢饉で困っている領民を救うためで、もともと予定していたことだったのだといいます(北条泰時の徳政)。

伊豆国で徳政を行った泰時は10日に鎌倉に帰っています。


『吾妻鏡』は、北条泰時の快挙と源頼家の愚行を対比させて伝えたかったのでしょうか・・・


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


蹴鞠は平安時代に宮中で流行し、鎌倉時代には武士階級でも盛んに行われるようになった遊戯。

ただ、単なる遊戯ではなかったようです。

治天の君・後鳥羽上皇は、蹴鞠に秀で、その道の長者と称されていたそうです。

そうなると、政治の上で蹴鞠は重要な藝。

源頼家は、蹴鞠を好み、政務を疎かにし、飢饉で苦しむ者を顧みない暗君として『吾妻鏡』に描かれていますが・・・

もしかすると、源頼家後鳥羽上皇と渡り合うために蹴鞠に熱中していたのかも。




源頼家


後鳥羽上皇


承久の乱

北条政子の言葉~承久の乱~








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2022年7月30日土曜日

後鳥羽天皇宸翰御手印置文~後鳥羽上皇の遺勅:水無瀬神宮~




水無瀬神宮に伝わる「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」 (ごとばてんのうしんかんおていんおきぶみ)は、承久の乱で隠岐に流され、1239年(延応元年)2月22日に崩御した後鳥羽上皇の遺言。

崩御の13日前に水無瀬親成(藤原親成)に書き残したもの。

摂津の水無瀬・井口の両荘を与えることや、自身の菩提を弔うことなどが記されています。




水無瀬神宮の前身となる水無瀬御影堂は、この遺言に基づいて建立されたのだといいます。







後鳥羽上皇


承久の乱

北条政子の言葉~承久の乱~








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2022年7月29日金曜日

北条政子の頭髪曼荼羅~伊豆山神社~


『吾妻鏡』によると・・・

1200年(正治2年)1月13日、法華堂では源頼朝の一周忌が営まれました。

北条時政をはじめとする多くの御家人が参列。

導師は栄西

堂内には、絵像の釈迦三尊と梵字の曼荼羅が掲げられました。

梵字の曼荼羅は、北条政子が自らの髪の毛を縫って作ったものだったそうです。





頼朝と政子が信仰した伊豆山神社には、「伝北条政子頭髪曼荼羅」が伝えられています。





伊豆山神社にある伊豆山郷土資料館では、2022年7月28日(木曜日)から8月30日(火曜日)まで、「伝北条政子頭髪曼荼羅」が公開されています。

拝観時間
9:00から16:00

水曜日は休館



伊豆山神社


伊豆山神社


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2022年7月28日木曜日

北条泰時が伊豆国で行った徳政





『吾妻鏡』によると・・・

1201年(建仁元年)8月11日、台風の襲来で、鎌倉の家々が押し潰され、港では船がひっくり返され、鶴岡八幡宮寺の回廊や八足門を始めとする仏閣・塔廟が倒れてしまい、万のうち一つも災難に合わない所はなかったというほどの被害を受けてしまいます。

下総国の葛西郡の海辺では、潮が押し寄せて農民や漁師などの家が巻き込まれ、一千余人が波にまかれて溺れ死んだのだといいます。


8月23日にも台風が襲来。

二度の台風で、五穀は全滅してしまいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北条氏の領国伊豆国では・・・

前年も田畑が損壊して収穫が少なく、飢饉になっていました。

春には、種まきができない状況となり、村人らは連署状を提出して「種もみ五十石」の貸付を受けていました。

秋には返すという約束でしたが、8月に台風が襲来し、国中で不作となってしまいます。

米を返せない人々は、逃げてしまおうと話し合っていたのだといいます。


それを耳にした北条泰時は、こうした惨状を救うため、10月3日、伊豆国の北条へ下向。

連署状に署名した者を呼び集めて、その目の前で証文を焼き捨て、「豊作になっても、貸した米を返さなくてよい」と言い聞かせました。

さらに酒や飯を出し、一人あたり米一斗を与えています。

人々は、それらを有難く頂戴し、喜びながら、あるいは、涙を流しながら、泰時の子孫繁栄を祈り、帰って行ったのだといいます。

酒や米は、予め代官に用意させていたのだとか・・・



三代執権北条泰時


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