別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年6月27日月曜日

水無月の大祓~鶴岡八幡宮~




大祓は、古来より半年ごとに知らず知らずのうちに身についた罪や穢れを祓い去り、新たなる日々を健やかに過ごすための神事。

大祓詞(おおはらえのことば)を奏上し、神職のお祓いを受け、切麻・人形による祓いの後、茅の輪をくぐって、無病息災を祈ります。




6月の大祓は、午前11時、午後1時、午後3時、午後5時の4回。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


八坂神社の粽

京都の八坂神社の祭礼・祇園祭で授与されるは、笹の葉で作られた厄病・災難除けのお守り。

茅の輪の由来となった素戔嗚尊(すさのをのみこと)と蘇民将来(そみんしょうらい)の伝説から授与される無病息災の御守りです。



大祓


鶴岡八幡宮








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


鎌倉の行事・祭


夏だ!休みだ!鎌倉だ!

夏の江ノ島


ぼんぼり祭


祇園祭







☆ ☆ ☆ ☆ ☆


鶴岡八幡宮のハス


光明寺のハス

光明寺観蓮会


中尊寺ハス~永福寺跡~


よりともジャパン.com


源頼朝の落馬伝説~源義経・安徳天皇の怨霊が・・・~


1180年(治承4年)、鎌倉に武家の都を創った源頼朝

1185年(元暦2年)に平家を滅ぼし、1189年(文治5年)には奥州藤原氏を滅ぼして全国を支配下に置きました。


1190年(建久元年)、上洛して権大納言・右近衛大将に任ぜられ、1192年(建久3年)には念願の征夷大将軍に任ぜられました。

征夷大将軍となった翌1193年(建久4年)には富士裾野で大軍事演習を行っています(富士裾野の巻狩り)。


1195年(建久6年)、東大寺大仏殿落慶供養参列のために二度目の上洛。

ただ、この時の上洛の真の目的は、長女大姫の入内運動にあったようです。

この頃から頼朝の頭上には暗雲が立ちこめ始めていたのかもしれません。

『吾妻鏡』も1196年(建久7年)から、1199年(建久10年)に頼朝が亡くなるまでの記事を欠いています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


旧相模川橋脚
(茅ヶ崎)

1198年(建久9年)12月27日、頼朝稲毛重成が妻の供養のために架けた相模川の橋供養に参列します。

その帰路に落馬。

それが原因で翌建久10年正月13日に亡くなったのだと伝えられています。

『吾妻鏡』にも橋供養の帰りに落馬して程なく亡くなったことが記されています。


茅ヶ崎市の旧相模川橋脚は、1923年(大正12年)の関東大震災で浮かび上がってきたもので、頼朝が渡り初めをした橋の橋脚ではないかと考えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

常識的に考えれば、武士が戦場でもない所で落馬するなど考えにくい事。

だとするとその理由があるはずです。

病気だったと考えるのが妥当なのかもしれませんが、各地に頼朝の落馬伝説が残されているようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源義経の亡霊伝説

茅ヶ崎の伝説では、鶴嶺八幡宮にさしかかった所で、頼朝に滅ぼされた源義経行家らの亡霊が現れ、驚いた馬が棒立ちとなり、落馬してしまったのだといいます。


弁慶塚

鶴嶺八幡宮の参道にある弁慶塚は、里人が義経一族の霊を慰めるため造ったのだと伝えられています。


御霊神社

御霊神社は、大庭景義が先祖の鎌倉権五郎景政を祀った毘沙門堂を前身とする社で、頼朝の前に怨霊となって現れた義経が合祀されています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

安徳天皇の亡霊伝説

鎌倉にも落馬伝説が残されています。

壇ノ浦の戦いで平家一門とともに入水し、幼くして亡くなった安徳天皇の怨霊が現れたというもの。

その場所は稲村ヶ崎


稲村ヶ崎


落馬した頼朝は、供の者らに助け起こされて御所まで帰りますが、重体となってしまいます。

様々な祈祷や治療が尽くされましたが、その効果はなく・・・

1199年(建久10年)正月11日に出家。

そして、13日に逝去(享年53歳)。


源頼朝墓

頼朝の亡骸は、持仏堂に葬られました。

現在はその場所に墓塔が建てられています。








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源義経

源頼朝をめぐる茅ヶ崎


壇ノ浦の戦い

赤間神宮


歴史めぐり源頼朝








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


歴史めぐり源頼朝


よりともジャパン.com


2022年6月26日日曜日

大慈寺建立縁起~三善康信が源実朝に語った話と源頼朝の死~


『吾妻鏡』によると・・・

1212年(建暦2年)10月11日、源実朝は4月18日から建て始めた堂を見るために大倉郷へと出かけました。

その時、供をしていた三善康信が実朝に霊夢の話をします。


大慈寺跡碑

☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1198年(建久9年)の12月頃に見た夢のことです。

頼朝様の供をして大倉山あたりに行きました。

そこに一人の老人がおりました。

その老人が言うには、

「この地は、清和天皇の時代に相摸丞となった文屋康秀(ふんや の やすひで)が住んでいた所。

ここに寺を建てなさい。

私が鎮守となりましょう」


夢から覚めた私は、すぐに頼朝様に報告しました。

その時、頼朝様は病気療養中でしたが、

「もし治ったら寺を建てる」とおっしゃられました。


しかし、その希望は叶うことなく翌年正月に亡くなられてしまい、残念に思っておりましたが、実朝さまが自ら願われて建立されますことは、やはり霊感なのでしょうか。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



『吾妻鏡』によると・・・

源頼朝は、1198年(建久9年)12月に稲毛重成が架けた相模川の橋の落成供養に出席し、その帰路に落馬。

それからどれほどの時を経ずして亡くなった(1212年(建暦2年)2月28日条)」

とされています。

頼朝の死因については諸説あるようですが、

三善康信源実朝に語った内容からすると、「病気が原因で落馬して死に至った」と推測できそうです。



源頼朝の最期







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


歴史めぐり源頼朝


よりともジャパン.com


2022年6月24日金曜日

源頼朝が再建した信濃善光寺


善光寺本堂


信濃善光寺は、日本最古の仏像とされる「一光三尊阿弥陀如来像」を本尊とする寺院。


『吾妻鏡』によると・・・

1179年(治承3年)に焼失した善光寺の再建に尽力したのは源頼朝でした。

1187年(文治3年)、信濃国の御家人に命じて再建に着手し、1191年(建久2年)に落慶供養が行われています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~頼朝の善光寺参詣計画~


『吾妻鏡』によると・・・

1195年(建久6年)春に東大寺大仏殿落慶供養に参列した頼朝は、秋には信濃善光寺の参詣を計画しています。

しかし、「間もなく寒くなってしまう」という理由から、翌春に延期されました。

その後、参詣の計画がどのようになったのか『吾妻鏡』からはわかりません。

ただ、肥後国人吉藩の相良家に伝えられた相良家文書の「源頼朝善光寺参詣随兵日記」には・・・

1197年(建久8年)3月23日、九州の御家人であった相良四郎が随兵したことが記されているといいます。



善光寺駒返り橋

参道の駒返り橋は、源頼朝の伝説が残された橋。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~北条政子奉納の頼朝像~




甲斐善光寺に伝えられる「木造源頼朝坐像」は、北条政子が造らせた像ともいわれ、源頼朝の最古の彫像といわれています。

この像、かつては信濃善光寺にありました。

何故、甲斐善光寺にあるのでしょう?

甲斐善光寺は、武田信玄上杉謙信との川中島の戦い信濃善光寺が焼失してしまうことをおそれ、信濃善光寺の本尊(善光寺如来)を甲斐国に移してきたことに始まります。

その際、多くの寺宝とともに頼朝像も信濃から甲斐に移されたようです。

武田氏が滅びると、善光寺如来は各地を転々とした後、信濃に戻りますが、頼朝像はそのまま甲斐に残されました。



信濃善光寺

甲斐善光寺








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編


歴史めぐり源頼朝

二代執権北条義時


よりともジャパン.com