別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年6月20日月曜日

大姫の入内~叶わなかった頼朝の夢~





1195年(建久6年)、源頼朝は、妻の政子・嫡男の頼家・長女の大姫を伴って上洛します。

南都東大寺大仏殿落慶供養に出席するための上洛ですが、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることが真の目的だったともいわれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~大姫と義高~


時代は遡りますが、1183年(寿永2年)、頼朝と対立していた木曽義仲は、子の義高を人質として鎌倉に送り、頼朝と和解をします。

このとき、頼朝の長女大姫義高の婚儀も整っていたといいます。

しかし、間もなく頼朝と義仲の関係は破れ、翌年、頼朝は義仲を攻めて敗死させ、義高も誅殺しました。


(狭山市)

清水八幡宮は木曽義高を祀る神社。


木曽塚
(鎌倉:常楽寺)

常楽寺の裏山にある木曽塚は、木曽義高の首塚と伝えられています。


義高によくなついていた大姫の受けた衝撃は大きく、水も飲めないほどに衰弱してしまったといいます。

その後も大姫の心が癒されることはありませんでした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~大姫の入内問題と九条兼実の失脚~


1194年(建久5年)、頼朝の妹婿の一条能保の子高能が鎌倉に下ってきました。

この頃の大姫は病気も小康状態を保っていたそうです。

高能との縁談をすすめられた大姫は、これを強く拒絶します。

誰の発案で大姫と高能の縁談が持ち上がったかは分かりませんが、頼朝は、この時にはまだ大姫の入内を考えていなかったのでしょうか?

そして、上洛の時を迎えます。

大姫は、当時17歳前後ではなかったかといわれています。


頼朝は、これまで関白九条兼実との協力体制を築き、朝廷と幕府の関係を円滑に運営してきました。

特に、後白河法皇亡き後、頼朝征夷大将軍に任ぜられたのは兼実の力によるものでした。

しかし、この度の上洛では、兼実と敵対関係にある丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行っています。

頼朝の支持が、兼実から丹後局と通親に移ったことは、兼実の失脚に繋がりました。

そして、1196年(建久7年)の政変では、兼実は関白を罷免され、弟の慈円も天台座主(延暦寺の貫主)の地位を奪われることになります。

この政変について頼朝も知っていたとする説があります。

兼実が関白を罷免された後、京都では、
「兼実邸に出入りする者は頼朝のお咎めを受ける」

という噂が流れたともいいます。

大姫入内を考えた頼朝、親幕派の兼実を裏切った頼朝・・・

やはり頼朝も貴族であって、東国武士の棟梁になりきることはできなかったのか・・・


そんな中の1197年(建久8年)7月14日、大姫はこの世を去ります。

おそらく20歳前後だったのでしょう。


(鎌倉)

岩船地蔵堂は、大姫の守り本尊を祀る堂と伝えられています。


(鎌倉:常楽寺)

常楽寺木曽塚の下にある姫宮塚は、北条泰時の娘の墓と伝えられてきました。

ただ、最近では大姫の墓ではないかとも・・・。



大姫


木曽義高の誅殺


東大寺大仏殿落慶供養


大姫入内の夢~大姫の死~


歴史めぐり源頼朝







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吉見御所と呼ばれた源範頼の伝説


(吉見町:安楽寺)


1159年(平治元年)の平治の乱で源氏の棟梁源義朝平清盛に敗れ、尾張国野間で家臣の裏切りに遭い最期を遂げました。

埼玉県吉見町の伝承によると、当時10歳前後だった六男の範頼安楽寺に隠れ住んだのだといいます。

そして、兄頼朝の乳母を務めた比企尼をはじめとする比企一族の庇護のもとに成長したのだとか。




安楽寺は、坂東三十三箇所11番で吉見観音と呼ばれます。

範頼は、本堂や三重塔を建立したと伝えられていますが、1537年(天文6年)に後北条氏が松山城を攻めた際に消失してしまったそうです。




(吉見町)


息障院は、範頼の館跡といわれる地にある寺院。

吉見で成長した範頼は、1180年(治承4年)に頼朝が鎌倉を本拠とした後も吉見に住み続けていたのだとか。

※『吾妻鏡』に範頼が初めて登場するのは、1183年(寿永2年)のこと。




その後、兄頼朝の下で、木曽義仲追討一ノ谷の戦い壇ノ浦の戦いで活躍した範頼でしたが・・・

1193年(建久4年)、謀反の疑いをかけられ伊豆の修禅寺に幽閉され、間もなく梶原景時らに攻められて自害したのだと伝えられています。

範頼修禅寺に流された時、比企尼は曾孫の範圓と源昭の助命を嘆願。

範圓は、範頼館に居住し、子孫は吉見氏を称するようになったのだ伝えられています。

※範頼の妻は、安達盛長の娘で比企尼の長女・丹後内侍が産んだ子。



源範頼の謀叛


比企尼


源範頼が書いた起請文








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2022年6月19日日曜日

太寧寺の源範頼生存伝説~横浜市金沢区~


(横浜市金沢区:太寧寺)


伝説によると・・・

1193年(建久4年)、謀反を疑われ伊豆の修禅寺に幽閉された源範頼

修禅寺を脱出した範頼は、浦郷鉈切(横須賀市)に逃れますが、やがて鎌倉に知られるところとなり、瀬ヶ崎にあった太寧寺で自害したのだといいます。

太寧寺は、範頼が瀬ヶ崎に創建した薬師寺を前身としているといわれています。

薬師寺が称名寺門前に移転(現在の薬王寺)した後、薬師寺跡に太寧寺が建てられたのだとか。

太寧寺という寺名は、範頼の法名「太寧寺殿」によるもの。






源範頼の謀叛


源範頼が書いた起請文








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源範頼生存伝説~石戸蒲ザクラ~


(北本市)

石戸蒲ザクラは、源範頼の持っていた杖が根付いたと伝えられている桜。




根元には範頼のものと伝えられる墓塔。

1193年(建久4年)、謀反を疑われ伊豆の修禅寺に幽閉された範頼。

修禅寺の伝承では、梶原景時に攻められて自刃したとされていますが・・・

各地に範頼の生存伝説が残されています。

その一つが埼玉県北本市の石戸宿。

修禅寺から逃れてきた範頼は、石戸宿に隠れ住んでいたのだといいます。



石戸神社は、範頼の住居跡といわれる場所に建てられています。




源範頼の謀叛


源範頼が書いた起請文








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源範頼伝説~修禅寺に幽閉された範頼の最期~




1193年(建久4年)、源頼朝に謀反の疑いをかけられた源範頼は、修禅寺信功院)に幽閉されました。

その後、梶原景時に攻められ自刃したと伝えられています。




日枝神社の庚申塔のある場所に範頼が幽閉された信功院があったのだといいます。




昔、源範頼墓がある地には、小さな石祠が建てられて八幡神と呼ばれ、8月15日を祭礼の日としていました。

祠の中の神は、冕冠(べんかん)を頂いた束帯姿で、弓と矢を握っていたことから、信功院で憤死した範頼の遺体をここに埋め、鎌倉に憚りがあるので八幡神を祀ったのではないかと伝えられてきたそうです。

そして、明治12年、当時の土地所有者が頭の骨が納められたものを掘り出したことから、伝説のとおり範頼の墳墓の地とされ、祠の横に「蒲公碑」が建てられたのだといいます。

範頼は、遠江国蒲御厨の出身であるころから「蒲殿」と呼ばれていました。



修善寺の梅林に向かう途中には安達盛長の墓があります。

安達盛長の妻は比企尼の娘丹後内侍。

娘は範頼の妻となりました。

かつては範頼の墓の近くにあったのだといいます。



修禅寺

源範頼の謀反


源範頼が書いた起請文









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