別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2021年10月14日木曜日

昭和の時代の源頼朝墓


源頼朝墓
沢寿郎著『鎌倉史跡見学』より


写真が古いのですが、この源頼朝の墓は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てたものです。



現在の墓塔と少し雰囲気が違いますが、頼朝墓は1989年(平成元年)に何者かによって破壊されたことから修繕が加えられています。



2012年(平成24年)2月11日にも一番上の相輪部分が破壊されました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると、源頼朝は、1189年(文治5年)7月18日、走湯山(伊豆山権現)の專光坊良暹を呼び出して、奥州征伐のための祈願所を設けることを命じています。

その祈願所が頼朝の「持仏堂」です。

本尊は、頼朝が三歳の時に京都の清水寺から下された聖観音像でした。

頼朝は、その死後、「持仏堂」に葬られたと伝えられ、以後、「持仏堂」は「法華堂」と呼ばれるようになったといいます。

「源頼朝墓」は、その後廃された法華堂の跡地に建てられました。

📎源頼朝の守り本尊










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2021年10月13日水曜日

鴨長明が源頼朝の墓で詠んだ歌


法華堂跡


1211年(建暦元年)10月、鴨長明は飛鳥井雅経の推挙によって鎌倉に下向し、源実朝と何度か面会しています。

10月13日の源頼朝の命日には法華堂(頼朝墓)を参拝。

経を唱え、昔を思い出して涙し、一首の和歌を法華堂の柱に書き残したのだそうです。


『北条九代記』によると・・・

頼朝の法華堂を参拝した長明は、

「頼朝の武勇の威力は天下にあまねく輝き渡り、勢いある武力で国内を平定し、代々と続いた源家の大運がここに開け、なびかぬ草木もなかったのに、無常の悪鬼の襲い来るのを防ぐすべもなく、53歳の生涯はたちまちに終わり着いて、青草の生える一個の塚に葬られ、墨書きの施された数尺の卒塔婆ばかりが、その光栄ある頼朝の名を伝えるしるしとして残っている」

と、昔を懐かしんで涙を流しながら、一首の和歌を法華堂の柱に書きつけたのだといいます。

「草も木もなびきし秋の霜消えて空しき苔をはらう山風」

(人はもとより草も木もなびいていた秋の霜(頼朝)が消え去って、塚に生えたむなしい苔を山風が吹きはらっているばかりである)


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「君が代も我が代も尽きじ石川や瀬見の小川の絶えじとおもへば」

源実朝が詠んだこの歌は、鴨長明の

「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れも尋ねてぞすむ」

を本歌としたもの。



「瀬見の小川」は、下鴨神社が鎮座する糺の森を流れる川。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鴨長明の方丈
(下鴨神社摂社河合神社)

鴨長明は歌人・随筆家。

三大随筆の一つ『方丈記』は、長明が鎌倉に下向した翌年に成立。

下鴨神社の摂社河合神社に置かれている方丈の中から世間を観察して、世の無常と人生のはかなさを著したのだといいます。


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現在の墓塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたもの。

島津の紋

島津氏の祖忠久の母は、頼朝の乳母を務めた比企尼の長女丹後内侍で、忠久は頼朝の御落胤ともいわれてきました。








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2021年10月12日火曜日

お十夜~比叡山から真如堂そして光明寺~


光明寺のお十夜


「お十夜法要」は、伊勢貞国(平貞国)が真如堂に籠もったことから始まるのだと伝えられています。


伊勢貞国は室町幕府の政所執事を務めた人物。

戦国時代の幕を開けた北条早雲は外孫です。

※早雲の出自については様々な説があるようですが、伊勢盛定の子・盛時というのが定説となっているようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~お十夜の始まり~

この世の無常を感じた伊勢貞国。

若い頃から阿弥陀如来を信仰していた貞国は、三日三晩、真如堂に参籠して、満願の暁には出家することを考えていました。

すると・・・

貞国の夢に僧が現れて告げます。

「阿弥陀を信じるのなら出家するのは三日待て」

そして、その三日後。

足利義教に仕えていた兄貞経が失脚させられて吉野に謹慎。

貞国があとを継ぐことになりました。

夢告がなかったら、自分は出家してしまい、兄の跡を継ぐどころか家が絶えてしまうところでした。

阿弥陀さまに感謝した貞国は、七日七晩重ねて参籠したのだといいます。

合わせて十日十晩の参籠となります。

これが「お十夜」の始まりだと伝えられています。


「心だにたてし誓ひにかなひなば世のいとなみはとにもかくにも」

貞国の夢枕に現れた僧が残した歌なのだといいます。


(京都)

十夜の念仏会は、平安時代に慈覚大師円仁が唐の清涼山から比叡山に伝えたものといわれ、室町時代になって後花園天皇が京都東山の真如堂に伝えました。

そして、享徳年間(1452年~55年)、伊勢貞国が真如堂に籠もって、10月6日から15日までの10日間にわたって勤行したのが、現在の「十夜法要」のはじまりと伝えられています。


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~光明寺のお十夜~

光明寺のお十夜


光明寺お十夜は、1495年(明応4年)、第九世観誉祐崇が後土御門天皇の勅命で清涼殿において「引声阿弥陀経」・「引声念仏」による法要を勤修したことで勅許されました。

「引声阿弥陀経」や「引声念仏」は、ゆるやかな曲節をつけて声を引き伸ばして唱えるもの。

慈覚大師円仁が中国唐から比叡山に伝えたのだとされています。


延暦寺にない堂
(延暦寺西塔)

延暦寺西塔にない堂は常行堂(左)と法華堂(右)が廊下で繋がった建物。

慈覚大師円仁は、常行堂で引声念仏を行ったのだといいます。


光明寺


お十夜







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運慶の諸仏公開

宝物風入

旧川喜多邸別邸


鎌倉の紅葉


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鶴岡八幡宮の遷座


鶴岡八幡宮


鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)、源頼朝の先祖源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請したことに始まります。


1180年(治承4年)10月6日(7日とも)、鎌倉入りを果たした源頼朝は、10月11日、伊豆山権現の專光坊良暹を鎌倉に呼び出します。

そして10月12日、頼義が由比郷に創建した鶴岡八幡宮(由比若宮)を小林郷北山へ遷座。

しばらくの間の別当(長官)職として、專光坊良暹が任命されました。

事務は大庭景義が命じられています。


『北条九代記』によると・・・

元の場所から新たな場所へ移すことに神がどのように思われるか心配だった頼朝は、自らが神の前でおみくじを引くと「小林郷へ移るべき」という占いが三度も出たのだとか・・・。



鶴岡八幡宮

石清水八幡宮

伊豆山神社






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2021年10月11日月曜日

北条政子の鎌倉入り




1180年(治承4年)10月10日、源頼朝石橋山で大敗した後、伊豆山権現の覚淵の計らいにより秋戸郷で暮らしていた北条政子稲瀬川に到着します。

この日は、民家に宿泊。

翌11日午前6時ごろ、大庭景義が迎えあがって鎌倉に入りました。

10日は日柄がよろしくないので11日にしたのだそうです。



(熱海)




伊豆山神社

熱海と源頼朝の伝説







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