別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2024年8月26日月曜日

吉野に南朝を興した後醍醐天皇と北条時行


鎌倉幕府は、1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の綸旨を受けて上野国で挙兵した新田義貞に滅ぼされました。

後醍醐天皇による親政(建武の新政)が開始されますが・・・

1335年(建武2年)、足利尊氏が離脱。

このきっかけを作ったのが北条時行が起こした中先代の乱でした。

翌年、尊氏は光明天皇を即位させて「建武式目」を制定し、室町幕府を成立させます。

これにより建武の新政は崩壊し、後醍醐天皇は花山院に幽閉されてしまいます。

その後、後醍醐天皇は花山院を脱出して吉野へ行幸。

自ら主宰する朝廷を開いたことにより、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



1336年(延元元年/建武3年)、密かに吉野へ行幸した後醍醐天皇が居所としたのが吉水院(現在の吉水神社)。

後醍醐天皇が吉野に南朝を興すると、北条時行は朝敵の赦免を願い出たのだといいます。

『太平記』によると・・・

我らの敵は、鎌倉幕府を裏切り、さらに後醍醐天皇まで裏切った足利尊氏・直義の兄弟のみ。

北条一族を赦免して頂き、朝敵征伐の綸旨を賜りたく・・・

という内容だったのだとか。


如意輪寺

如意輪寺後醍醐天皇の勅願寺(南朝勅願寺)。

1339年(延元4年/暦応2年)8月16日、後醍醐天皇は還御することなく崩御(宝算52)。

陵墓は如意輪寺にあります。




吉野山

吉野は・・・

天智天皇の後継を辞退した大海人皇子が下った地。

藤原道長が金峯山詣を行い自ら書写した経を埋納した地。

源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた地。

鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)で、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時拠点とした地。

そして、後醍醐天皇が南朝を興した地。




吉野山


源義経

静の舞

静の舞







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鎌倉との繋がりを求めて。
奈良・京都

源義経をめぐる京都

歴史めぐり源頼朝


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鎌倉検定過去問~東身延の額:五郎入道正宗と松平定信~


(問)本覚寺所蔵の「東身延」の額の文字を揮毫したのはだれか。


本覚寺は二代日朝が身延山久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したことから「東身延」と呼ばれている寺です。

「東身延」の額は松平定信によるもの。


松平定信は、八代将軍徳川吉宗の孫。

寛政の改革を行ったことで知られていますが、何故、本覚寺の額を書いたのでしょう?

定信が「熱心な日蓮信者」だったということでもないようです。


定信の祖父・吉宗は刀剣書の『享保名物帳』を編纂させています。

その中には、鎌倉時代から室町時代に鎌倉で活躍したに五郎入道正宗の刀も多く含まれています。

定信が編纂した古宝物図録『集古十種』は、吉宗の意図を継承したものと考えられ、その中には正宗の刀も含まれています。


そして、正宗の菩提寺は本覚寺

定信が「東身延」の額を書いた理由には、正宗の刀が関係あるようですですが・・・

どうなのでしょう?



(本覚寺)

正宗という名は・・・

佐渡流罪を許されて、夷堂で布教活動をしていた日蓮に付けてもらったものだといいます。




包丁正宗荏柄天神社に伝えられた名刀で定信の『集古十種』にも収録されている。






鎌倉検定


本覚寺


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2024年8月25日日曜日

天から天神画像が降ってきた!~鎌倉:荏柄天神社~


荏柄天神社


1104年(長治元年)8月25日、荏草郷といわれた土地に、にわかにかき曇った天から天神画像が降ってきました。

神験を恐れた里の人々は、その場所に社殿を建て、画像の降り立った地を踏むことのないように銀杏の木を植えて御神木とし、その画像を祀ったのだそうです。

天神とは、無実の罪で大宰府に左遷され、都に戻ることなく没した菅原道真のこと。

荏柄天神社の祭神は道真


荏柄天神社の大銀杏

荏柄天神社大銀杏は、樹齢900年ともいわれる古木。



北野天満宮

京都の北野天満宮菅原道真の怨霊を鎮めるために建立された社。

947年(天暦元年)、多治比文子、近江国比良宮の神主・神良種、北野の朝日寺の僧最珍らが道真を祀る社を建てたのが始まり。

987年(永延元年)には、一条天皇の勅使が派遣され、「北野天満宮天神」の神号が与えられました。

道真は、宇多・醍醐天皇に仕えて右大臣にまで昇りますが、藤原時平の讒言で失脚し、左遷先の太宰府で最期を遂げました。

死後、朝廷に祟りをなしたため天神として祀られています。




荏柄天神社








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鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮神幸祭

小笠原流流鏑馬


絵筆塚祭


鎌倉の紅葉


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2024年8月24日土曜日

石橋山から伊豆へ向かった北条宗時~石橋山の戦い~


1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、8月24日、石橋山の戦いで大敗。


『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いでの敗北後、北条時政北条義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、北条宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとしたようです。

しかし、宗時は平井郷を目の前にして伊東祐親軍に討たれてしまいます。

時政が甲斐国を目指したことについては、武田信義を味方につけるためということで理解できますが・・・

宗時は何故、伊豆国へ戻っていったのでしょう・・・


宗時の墓があるのは函南町大竹。

川を渡れば平井。

もう少しで北条の地という場所です。

伊豆国経由で甲斐国へと向かう予定だったということも考えられますが・・・


参考までに、源頼朝石橋山の戦いで討死した者に対して弔いをしているようですが、宗時に対するものは記録されていないようです。

時政は1202年(建仁2年)に伊豆国で宗時の菩提を弔ったようですが・・・

それは頼朝の死後の事。

石橋山の戦いから20年以上も経ってからのことです。

頼朝と宗時の間には何かあったのかもしれません。

北条父子は頼朝を見捨てたのかも・・・


📎北条時政の不思議な行動~石橋山の戦い~



冷川

『吾妻鏡』によると、宗時が討たれたのは早川(はやかわ)。

早川とは函南町を流れる冷川(ひえかわ)の事ではないかとする説があります。









北条宗時


石橋山の戦い







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2024年8月23日金曜日

金色堂建立900年~道長の法成寺・頼通の平等院と奥州藤原氏~


平安時代、浄土信仰の広まりで阿弥陀堂の建立が盛んに行われました。

その始まりは慈覚大師(円仁)が延暦寺に建立した常行堂

藤原道長が帰依した源信(恵心僧都)が修行をした横川恵心堂は、浄土信仰発祥の地といわれています。

貴族階級が競うように阿弥陀堂を建立した中で、1020年(寛仁4年)に創建された道長法成寺は最大規模のものだったようです。

法成寺の造仏を担当した定朝でした。


道長の没後、東北地方は戦乱の時代となります。

そして、陸奥・出羽の両国を手に入れることになったのが藤原清衡

1105年(長治2年)、清衡は前九年、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養するための仏国土建設を開始。

中尊寺には多くの堂塔が建立され、1124年(天治元年)には清衡の廟堂としての阿弥陀堂(金色堂)が建立されました。


中尊寺金色堂

2024年(令和6年)は金色堂建立から900年。

『吾妻鏡』によると、堂内の阿弥陀三尊・二天・六地蔵は定朝の作。




宇治の平等院は、道長の別荘「宇治殿」を始まりとする寺。

1053年(天喜元年)に落成した阿弥陀堂(鳳凰堂)は、法成寺の阿弥陀堂を参考にして建立されたのだといわれています。

本尊の阿弥陀如来は定朝が造立しました。

『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏三代当主の藤原秀衡が平泉に建てた無量光院は、平等院を模していたのだといいます。




奥州平泉


中尊寺

毛越寺

観自在王院

無量光院



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