別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2024年7月31日水曜日

鎌倉検定過去問~源頼朝の永福寺~


奥州藤原氏の築いた平泉の中尊寺大長寿院を模して、源頼朝が造営したという壮大な寺院の旧跡はどこか。

源頼朝が二階堂に永福寺を創建したのは何のためか。

度重なる火災などで失われたが,奥州藤原氏が築いた平泉の中尊寺の二階大堂(大長寿院) を模して源頼朝が創建したという壮大な寺の旧跡はどこか。

源頼朝は、[    ]を攻めたときに見た平泉の中尊寺金色堂や[    ]の庭園の壮麗さに感銘して、後に、鎌倉の地にもこれに似た壮麗な寺や庭園を築いたのが、[    ]である。[    ]は、鶴岡八幡宮(寺)・[    ]とともに、鎌倉幕府成立当初の三大寺院といわれた。将軍の創建であり、幕府主催の国家守護の祈祷を行うところから「幕府の[    ]」という性格を帯びていた。


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1187年(文治3年)10月29日に源義経を庇護していた奥州平泉藤原秀衡が死去し、1189年(文治5年)閏4月30日に義経が泰衡に討たれると・・・

7月19日、源頼朝奥州征伐を開始。

秀衡の子泰衡は平泉館を焼き払い、逃亡の末、9月3日、比内郡贄柵で郎党に殺されました。

これによって藤原清衡以来栄えた奥州藤原氏は滅びました。


永福寺は、源頼朝が奥州平泉の中尊寺毛越寺無量光院などを模して建てた寺院。

藤原泰衡や源義経をはじめとする内乱の戦死者を鎮魂するために建立したのだといわれています。

1405年(応永12年)に焼失し、その後廃絶したものと考えられています。





永福寺跡では、2017年(平成29年)に二階堂・阿弥陀堂・薬師堂の基壇と苑池の復元が完了。

苑池の景観は、宇治平等院鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されています。

本堂は、中尊寺大長寿院(二階大堂)を模して建てられたようですが、両側に阿弥陀堂、薬師堂を従え、前面には苑池も造営されていることから、全体のイメージは、無量光院を参考にしたのかもしれません。

無量光院は、奥州藤原氏三代目の秀衡が、宇治の平等院鳳凰堂を模して建てた寺院だったといいます。


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奥州藤原氏と源氏の過去を乗り越え、友好の証として、2019 年(平成 31)4月に平泉町から鎌倉市に寄贈された花は何か。




2019年(平成31年)、平泉町から中尊寺大池跡に咲く中尊寺ハス5株が鎌倉市に寄贈され、2021年(令和3年)から永福寺跡に置かれています。

中尊寺ハスは、源頼朝奥州征伐で滅ぼされた藤原泰衡の首桶から発見されたハスの実が発芽したもの。




鎌倉検定



永福寺跡


源頼朝の永福寺と藤原秀衡の無量光院・藤原頼通の平等院


中尊寺ハス


源頼朝建立の三大寺院


歴史めぐり源頼朝


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奥州平泉


中尊寺

毛越寺

観自在王院

無量光院


源義経最期の地


奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~


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2024年7月30日火曜日

鎌倉検定過去問~源頼朝の勝長寿院~


雪ノ下の大御堂にあった〔   〕は、〔   〕が父親の供養のために創建、奈良から仏師〔   〕を招いて、黄金の〔   〕像を造らせて安置し、盛大な儀式を行ったと伝えられる。

源頼朝が雪ノ下の大御堂に勝長寿院を創建したのは何のためか。

勝長寿院の黄金の阿弥陀像を造仏するために、源頼朝に奈良から招かれたと伝えられる仏師はだれか。

源頼朝が、1185年(文治元)、父の供養のために雪ノ下の大御堂に創建したと伝えられる寺の旧跡はどこか。

現在は碑のみが残される[    ]は、源頼朝が1185年(文治元)に父義朝の供養のために、雪ノ下の[    ]に創建したといわれる。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1185年(文治元年)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うため勝長寿院を創建。

後白河法皇から送られた義朝と義朝に仕えた鎌田政長(政清・政家)の首を葬ります。

本堂(阿弥陀堂)には、成朝(奈良仏師)によって彫られた「黄金の阿弥陀仏」が本尊として安置され、藤原為久によって「浄土瑞相二十五菩薩像」(壁画)が描かれたのだといいます。

1219年(承久元年)には、北条政子源実朝の冥福を祈るため五仏堂を建立し、運慶の五大尊像が安置されました。



勝長寿院跡


勝長寿院の造仏のため、頼朝は京都の仏師ではなく奈良の仏師を選びました。

それは平家をはじめとする旧勢力との関係が稀薄だったから。

奈良仏師は、平等院阿弥陀如来坐像を造立した定朝の流れをくむ集団。

奈良仏師として知られるのは運慶ですが、系統や血筋を重視する頼朝は、傍流の運慶ではなく嫡流の成朝を選んだのではないかと考えられています。

頼朝が成朝に造仏を依頼したことで、東国と奈良仏師の関係が開かれ、北条時政願成就院の諸仏制作を、和田義盛浄楽寺の諸仏制作を運慶に依頼しています。




鎌倉検定



源頼朝建立の三大寺院


運慶


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2024年7月29日月曜日

鎌倉検定過去問~大倉幕府(鎌倉幕府)に関する問題~


(問)源氏三代と尼将軍とも呼ばれた北条政子の時代に、幕府が置かれた場所とされる旧跡はどこか。

(問)大倉に居を構え、武士として初めて幕府を開いた人物はだれか。


(問)源頼朝は鎌倉入りし、大倉に居を構え、幕府を開いた。その後、幕府は3代執権北条泰時により、〔 ① 〕に移され、さらに1236年(嘉禎2年)には〔 ② 〕に移された。

(問)平氏打倒の旗挙げの直後、[ ① ]の合戦に敗れた源頼朝は、海上で三浦氏と合流して、房総半島に逃れた。再度、関東の豪族を集めて勢力を立て直し、鎌倉に入り、[ ② ]に屋敷を構えた。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1180年(治承4年)8月17日、伊豆の流人だった源頼朝源氏再興の挙兵をします。

伊豆国の目代・山木兼隆を討った頼朝は相模国へと進軍しますが、石橋山の戦いに敗れ、真鶴から安房国へと渡りました。

安房国で再挙した頼朝は、10月7日、大軍を率いて鎌倉に入ります。

2日後の9日には御所の造営にとりかかりました。

選ばれたのは大倉の地。

大庭景義を奉行として進められた御所の造営は、12月12日に完了。

新造の御所に入った頼朝は、御家人311人から「鎌倉の主」に推戴されます。

鎌倉殿の誕生です。

この少し前の11月17日、和田義盛が侍所の別当に任じられています。


大倉御所は、頼朝亡き後は頼家実朝そして北条政子が主となりますが・・・

1225年(嘉禄元年)に政子が死去すると、北条泰時は御所を宇津宮辻子に移し、さらに、11年後には若宮大路に移しました。



大倉幕府跡
(大倉御所跡)

頼朝の御所は、のちに大倉幕府(鎌倉幕府)と呼ばれます。

鎌倉幕府とは鎌倉の武家政権のことで、その成立時期については様々な意見があるようですが、頼朝が幕府という語を使ったことはないようです。

武家政権=幕府とされたのは江戸時代後半のこと。

徳川家康に「江戸幕府」と言っても「何の事?」と言われてしまうのかもしれません。

参考までに・・・

鎌倉検定では武士として初めて幕府を開いた人物を源頼朝としていますが、武家政権を樹立させたのは平清盛

近年では清盛の六波羅福原も幕府であるという提唱も。




問注所は、1184年(元暦元年)10月20日に源頼朝御所内に設置された訴訟事務を所管する機関。

頼朝亡き後の1199年(建久10年)4月1日、現在の御成小学校付近に移転されました。

『吾妻鏡』によると、人々が群集し、騒ぎたて、無礼を働く者がいたため、頼朝の時代から移転が検討されていたのだといいます。

熊谷直実と久下直光の土地の境界を巡っての論争では、うまく弁解が出来ない直実が西の侍所で髷を切ったという事件が発生。

以来、御所での裁判を中止して、三善善信の家を裁判の場所としてきたのだとか。

その後、裁判を行う場所について議論が重ねられ、1199年(建久10年)4月1日に御所の外に新造されることとなったのだといいます。




鎌倉検定



源頼朝挙兵

源頼朝鎌倉入り


歴史めぐり源頼朝


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藤原詮子が葬られた宇治陵


1001年(長保3年)閏12月22日、藤原行成の屋敷で崩御した藤原詮子は、藤原定子が葬られた鳥戸野陵で荼毘に付され、宇治陵に葬られました。



宇治陵は、関白・藤原基経が定めた藤原北家一門の埋骨地。


藤原氏塋域の碑


塋域碑には、冬嗣・基経・時平・兼家道隆道長頼通・師実の名が刻まれています。

その他・・・

冷泉天皇の女御・藤原超子

円融天皇の中宮・藤原媓子

円融天皇の中宮・藤原遵子

花山天皇の生母・藤原懐子

一条天皇の生母・藤原詮子

一条天皇の中宮・藤原彰子

三条天皇の皇后・藤原娍子

三条天皇の中宮・藤原妍子

後一条天皇の中宮・藤原威子

後朱雀天皇の女御・藤原嬉子

などが葬られました。

ただ、37ヶ所の陵墓のうち、誰がどこに被葬されているかは特定されていません。









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


源氏物語

光源氏



源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


藤原道長

藤原彰子



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真正極楽寺・真如堂~藤原詮子の離宮跡~




真如堂は、984年(永観2年)、藤原詮子の離宮に比叡山常行堂にあった阿弥陀如来を安置したことに始まります。

阿弥陀如来は慈覚大師円仁の作で「うなづきの弥陀」と呼ばれています。

阿弥陀如来の脇侍の不動明王は、安倍晴明の念持仏とされる像。

晴明が急死したときに蘇生させたという伝説の像。




真如堂の旧地にある換骨堂(元真如堂)には、藤原詮子の供養塔が建てられています。



詮子は、出家後、院号宣下を受け「東三条院」を称しました。



京日吉神社は真如堂の守護神として日吉大社を勧請したことにはじまる社。













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