別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年2月11日日曜日

紫式部と清少納言~光る君へ第6話・漢詩の会~


「光る君へ」第6話では、若者が藤原義懐​のもとへ流れていくのを心配した藤原道隆は、正妻の高階貴子の案で漢詩の会を開くこととします。

講師は、まひろ(紫式部)の父・藤原為時とききょう(清少納言)の父・清原元輔

会では、藤原公任が見事な漢詩を披露しますが、道長のことが気になって仕方のないまひろ。

道隆公任の詩をどう思うか聞かれ、唐の白楽天のようだと答えますが・・・

ききょうは白楽天の親友だった元微之のようだと反論しました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


平安時代、貴族の間では白楽天(白居易)の『白氏文集』(はくしもんじゅう)が流行しました。

紫式部は、中宮・藤原彰子に、その中の諷諭詩「新楽府」を講義するほどの才能がありました。




「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」

この歌は、紫式部が中宮・藤原彰子に仕えるようになったときに詠んだもの。

紫式部の心は幾重にも乱れていたようです。

越前市の紫式部公園歌碑が建てられています。


紫式部『源氏物語』が評判となってで藤原道長から出仕を勧められたようですが、内裏の女房・橘隆子(左衛門の内侍)などからは「学識を鼻にかけている」と陰口を叩かれていたようです。

出仕後ほどなくして自宅に引き篭もり、5か月も出仕しなかったようですが、再出仕後は無学を装い、清少納言のように自己の才能を人前で発揮するようなことはしないと決めたのだとか。



(越前市:紫きぶ七橋)

紫式部が都以外で唯一暮らしたのが越前国。

越前市の河濯川に架かる七つの橋には、『紫式部日記絵巻』や『源氏物語絵巻』の一場面がレリーフとしてはめこまれています(紫きぶ七橋)。



越前市の紫式部公園は、紫式部の越前下向を記念して整備された寝殿造庭園。




次回は
打毬(だきゅう)



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


紫式部の京都

琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


藤原道長

藤原彰子



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嘆きつつ ひとり寝る夜の~蜻蛉日記:藤原道綱母の歌・光る君へ~




「嘆きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」

(一人で嘆きながら夜が明けるまで寝ている時間がどれだけ長いか分るでしょうか?分からないでしょうね)

『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母が夫藤原兼家に対して詠んだ皮肉の歌。

この歌は『百人一首』にも収録されています。


「光る君へ」第6話では、赤染衛門が教師を務める源倫子のサロンに出て来るかも。


📎藤原道綱母の歌~嘆きつつひとり寝る夜 夫兼家への皮肉の歌~




藤原道綱母は、兼家との間に道綱をもうけますが、道隆道兼道長超子詮子といった多くの子女に恵まれた時姫を超えることはできませんでした。

長谷寺石山寺には出産を祈ったようですが、だめだったようです。



石山寺には、兼家の不実に悩み、出家を考えて参籠したこともありました。

出家の話を聞いた兼家石山寺に駆け付けますが、物忌中だったため門前に停めた車からは降りず、道綱に言葉を伝えさせたのだとか。



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


紫式部の京都

琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


藤原道長

藤原彰子



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藤原忯子と六条御息所の生霊に殺された葵の上~光る君へ~


花山天皇に望まれて入内した藤原忯子(弘徽殿女御)。

寵愛を受けて懐妊しますが、病に伏してしまいます。

「光る君へ」第5話では、藤原兼家安倍晴明に子を呪詛するよう命じたようですが・・・


紫式部『源氏物語』~葵の巻~では、懐妊中の光源氏の正妻・葵の上六条御息所の生霊に苦しめられ、夕霧を出産しますが数日後に急死しています。

「光る君へ」でもそういう展開になるのでしょうか。

藤原忯子(弘徽殿女御)に生霊がついたとすると・・・

懐仁親王を生んだ藤原詮子



『源氏物語』~葵の巻~


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


法住寺

藤原忯子は、985年( 寛和元年)7月18日に急死。

法住寺は、父藤原為光忯子の菩提を弔うために建立したのだと伝えられています。


(兵庫県三田市)

藤原忯子が亡くなった翌年、花山天皇は元慶寺で出家し、法皇となります(寛和の変)。

晩年、花山法皇は播磨国の菩提寺に隠棲しますが、法皇付きの女官11名が藤原忯子の位牌を持って訪ねてきたのだといいます。

しかし、菩提寺は女人禁制のため、尼となって麓に住み着いたのだとか。

その地は「尼寺」(にんじ)と呼ばれ、忯子と女官11名の墓(十二妃の墓)があります。




紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

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