別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年2月5日月曜日

紫式部の物の怪の歌


「亡き人に かごとをかけて わづらふも おのが心の 鬼にやはあらぬ」

(後妻に亡き先妻の物の怪がついて悩んでいるのは、自分の心の中に鬼がいるからなのでは?)

この歌は、物の怪がついた女(後妻)の醜い姿を描いた図の背後に、鬼になった先妻を小法師が縛っている姿を描いて、夫は経を読んで、物の怪を退散させようとしている物語絵を見て詠んだもの。



紫式部の歌









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紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


藤原道長

藤原彰子



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まひろにとりついた物の怪(怨霊)を調伏~光る君へ第5話~





平安時代、病気の原因は物の怪(怨霊)の仕わざと信じられていました。

そのため、病人が出ると物の怪退散の加持祈祷(調伏)が行われたようです。

「光る君へ」第5話では、五節の舞の後に倒れてしまった主人公・まひろ(紫式部)にとりついた物の怪の調伏が行われ、物の怪の正体は、まひろの母・ちやはだったようです。

調伏の前に、験者はちやはが亡くなっていることを聞いて知っていたようですが・・・


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『源氏物語』~若紫の巻~では、瘧病(わらはやみ・感染症)に罹ってしまった光源氏は、3月晦日、加持祈祷のため北山の某寺に出かけています。


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清少納言の『枕草子』では、自信ありそうな験者が調伏を始めますが・・・

長時間経っても物の怪が現れず、ついには大あくびをして横になってしまったのだとか。

調伏では、物の怪を「憑座」(よりまし)に移して、その正体を見極めていたようです。

「憑座」とは、験者や巫子が神降ろしをする際に、神霊を乗り移らせる童子や人形のこと。

清少納言は、物の怪を憑座に移すことが出来ない験者を「すさまじきもの」(興覚めするもの)と言っています。


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『源氏物語』~若紫の巻~で光源氏が訪れた北山の某寺は、大雲寺がモデルといわれます。

光源氏は某寺で最愛の妻となる紫の上に出逢っています。

大雲寺を創建したのは藤原文範。

紫式部の曾祖父にあたるようです。




紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









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紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


紫式部年表


藤原道長

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満月の夜、まひろと道長が逢っていたのは河原院?~光る君へ第5話~




満月の夜、まひろ(紫式部)と道長が逢った六条の寂れた屋敷は、『源氏物語』~夕顔の巻~で光源氏夕顔を連れ出した某院をイメージしているのかも・・・

某院は、光源氏のモデルの一人とされる源融が造営した河原院がモデルといわれています。


(宮城県塩竃市)

源融は、864年(貞観6年)、陸奥・出羽の按察使として陸奥国に下向。

鹽竈神社の南の融ヶ岡に別荘を構え、融ヶ岡から見える千賀ノ浦の景色をこよなく愛したのだといいます。




帰京した源融は、塩竃の風景を模した庭園を造営し、尼崎から海水を運んで塩焼き(製塩)を楽しんだのだとか。



河原院は源融が造営した大邸宅。



錦天満宮の境内社・塩竃神社は 源融を祀る社。

錦天満宮は、河原院跡にあった歓喜寺の鎮守として創建されたことに始まります。


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光源氏に寂れた某院に連れ出された夕顔は、物の怪が現れて命を落としてしまう・・・

物の怪は六条御息所という説も。



光源氏:多賀城・塩竃・名取


紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









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紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


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