別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年1月18日木曜日

円融天皇と藤原兼家と第一皇子を生んだ藤原詮子


円融天皇の父・村上天皇の第五皇子。

兄の冷泉天皇が即位前から病気がちであったため、村上天皇の遺命により皇太弟となったのだといいます。

つまり、円融天皇冷泉天皇の皇子が成長するまでの一代主(中継ぎ)の天皇として即位したらしい。

そのため、藤原兼家は娘を円融天皇に入内させる考えはなかったのだといいますが・・・

979年(天元2年)、右大臣となった兼家は、翌年、次女の詮子を入内させます。

そして、詮子は第一皇子の懐仁親王(のちの一条天皇)を生みました。

しかし、982年(天元5年)、円融天皇藤原頼忠の次女・遵子を中宮としたため、腹を立てた兼家詮子と懐仁親王を東三条殿に連れ帰り、出仕をやめてしまいます。

円融天皇兼家の意地の張り合いはなかなか収まりませんでしたが・・・

984年(永観2年)、譲歩した円融天皇は、師貞親王(花山天皇)に譲位し、懐仁親王を東宮(皇太子)とすることになります。




東三条殿は、藤原兼家の邸宅。

ここで詮子一条天皇を出産。

兼家の死後は、嫡男・道隆に継承され、道隆の長女・定子は東三条殿から一条天皇に入内。

道隆の死後は道長が相伝。

紫式部は、道長の長女で一条天皇の中宮となった彰子に仕えますが、初出仕の時期については1005年(寛弘2年)とする説と、翌寛弘3年とする説などがあります。

1005年(寛弘2年)11月、平安宮内裏が焼失してしまっているため、一条天皇は東三条殿に遷った後、翌年、一条院に遷御しているので、初出仕の場所は寛弘2年ならば東三条殿、寛弘3年ならば一条院ということになるようです。










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陸奥総社宮~光源氏(源融・藤原実方)ゆかりの社~




陸奥総社宮は、陸奥国府が置かれていた多賀城に赴任した歴代の陸奥国司が参拝した社。

平安時代、陸奥・出羽の按察使として下向した源融や、陸奥守として下向した藤原実方も参拝したと思われます。

鎌倉時代には、源頼朝の命により陸奥国留守職として多賀城に入った伊沢家景が社地を寄進しています。






光源氏:多賀城・塩竃・名取









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2024年1月17日水曜日

人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな~光る君へ~


「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」

大河ドラマ「光る君へ」で紫式部が読んでいたこの歌は、紫式部の曾祖父・藤原兼輔が詠んだ歌。

醍醐天皇の更衣となった娘の桑子を案じて詠んだものとされています。

光源氏の母・桐壺更衣は、桑子をモデルにしているともいわれています。









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塩竈の御釜神社と紫式部の歌




「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」

この歌は紫式部が夫・藤原宣孝の追悼のために詠んだ歌。

陸奥国の名所絵を見て詠んだのだといいます。


塩竃市にある御釜神社は、陸奥国一宮・鹽竈神社の末社。

毎年7月4日から6日にかけて、古代の製塩法を今に伝える「藻塩焼神事」が行われています。






光源氏:多賀城・塩竃・名取









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