別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年1月13日土曜日

陸奥へ向かう藤原実方が通った君待橋


君待橋の碑


995年(長徳元年)、宮中で藤原行成の冠を投げ捨てたことが原因で陸奥守に左遷されたという藤原実方

陸奥に向かう実方が、この橋にさしかかって里人に橋の名をたずねたところ「君待橋」と答えたので

「寒川や 袖師ヶ浦に 立つ煙 君を待つ橋 身にぞ知らるる」

と詠んだのだとか。



光源氏:多賀城・塩竃・名取









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紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


琵琶湖で紫式部・源氏物語

平安宮 源氏物語ゆかりの地

源氏物語 須磨・明石

宇治十帖


藤原道長

藤原彰子



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2024年1月12日金曜日

蘆山寺の紫式部像~源氏物語を執筆した地~




紫式部の邸跡・蘆山寺の本堂入口には紫式部像が置かれています。

この地で『源氏物語』が書かれました。


『紫式部日記』によると・・・

1008年(寛弘5年)11月、出産のため土御門邸に下がっていた中宮・藤原彰子は、草子作りを始めます。

藤原道長も和紙や筆などを差し入れたのだといいます。

この草子が『源氏物語』と考えられています。


『源氏物語』が文献上で初登場するのもこの年。

藤原公任は紫式部にこう語りかけたのだとか。

「あなかしこゝのわたりわかむらさきや侯」












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紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


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2024年1月9日火曜日

藤原兼家の邸宅:東三条殿~紫式部が初出仕した所かも。~




東三条殿は、二条大路南西洞院大路東にあった藤原兼家の邸宅。

ここで長女の超子三条天皇を次女の詮子一条天皇を出産。

兼家の死後は、嫡男・道隆に継承され、道隆の長女・定子は東三条殿から一条天皇に入内。

道隆の死後は道長が相伝。


紫式部は、道長の長女で一条天皇の中宮となった彰子に仕えますが、初出仕の時期については1005年(寛弘2年)とする説と、翌寛弘3年とする説などがあります。

1005年(寛弘2年)11月、平安宮内裏が焼失してしまっているため、一条天皇は東三条殿に遷った後、翌年、一条院に遷御しているので、初出仕の場所は寛弘2年ならば東三条殿、寛弘3年ならば一条院ということになるようです。












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紫式部


源氏物語

光源氏


紫式部と越前国


紫式部の越前下向


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藤原道長

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2024年1月6日土曜日

紫式部が生まれた紫野~今宮神社~




今宮神社は、一条天皇の時代に疫病退散のために船岡山で行われた「紫野御霊会」 に始まる社。

紫式部が20歳前後の頃の正暦年間(990-995)、都では疫病が大流行。

一条天皇も疱瘡に罹患したといわれています。

疫病の流行は長徳年間(995-999)、長保年間(999-1004)まで続き、紫式部の夫藤原宣孝も疫病で亡くなったようです。

「消えぬまの 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな」

この歌は、紫式部が疱瘡になってしまった女性を励ますために詠んだと言われています。




「紫野御霊会」では、京中の人々が船岡山に登って綾傘に装飾を施して唄い踊ったのだといいます。

4月に行われる「やすらい祭」は、疫病の根源を花傘に集めて疫社に封じ込める祭で、紫野御霊会で人々が踊ったことに始まるのだと言われています。
 











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