源頼朝が創った武家政権の都「鎌倉」の歴史を中心に、関係地の伝説・文化や自然・寺社の花などの情報をお伝えします。
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別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
okadoのブログは、
『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。
2023年12月28日木曜日
紫式部の夫藤原宣孝の署名がある「大宰府符」~石清水八幡宮文書~
「石清水八幡宮文書」の中の
「大宰府符」
は、
紫式部
の夫・
藤原宣孝
の自筆署名のある文書。
石清水八幡宮
石清水八幡宮
は、京都の
裏鬼門
を守護する神社。
979年(天元2年)に
円融天皇
が行幸すると、以後、多くの天皇が行幸するようになる。
藤原道長
・
藤原詮子
・
藤原彰子
が信仰し、彰子に仕えた
紫式部
は
『源氏物語』
に、
藤原定子
に仕えた
清少納言
は『枕草子』に登場させた。
一条天皇
は、
一の鳥居
の「八幡宮」の額を
藤原行成
に書かせている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2023年12月24日日曜日
光源氏の物語と鎌倉~宗尊親王は源氏物語絵巻を持っていた!~
若宮大路幕府跡
『吾妻鏡』によると・・・
1254年(建長6年)12月18日、御所(
若宮大路幕府
)で『光源氏物語』の講義を源親行が行っている。
『光源氏物語』は、
紫式部
の
『源氏物語』
のこと。
京都の
大原三千院
に伝えられている『拾珠抄』(しゅうじゅしょう)には、地獄に堕ちた紫式部を供養するための
源氏供養
の願文が収められ、その中でも『光源氏物語』と呼ばれているらしい。
『光源氏物語』の講義が行われた時の将軍は
宗尊親王
。
宮内庁の『源氏秘義抄』には、
宗尊親王
の
御所
の屏風には色紙形の源氏絵が作られて貼られていたことが記されているらしい。
この源氏絵は将軍家に伝来していた『源氏物語絵巻』を依拠したもので、『源氏物語絵巻』の絵は紀の局と長門の局が描き、詞書は法性寺忠通(藤原忠通)や花園有仁(源有仁)だったのだという。
ということは、『源氏物語』が作られてから約100年後に作られた『源氏物語絵巻』が鎌倉にあったことになる。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2023年12月22日金曜日
源氏物語 恋するもののあはれ展~大津:石山寺~
大津市は
『源氏物語』
誕生の地。
紫式部
が
『源氏物語』
を書き始めたという
石山寺
では、2024年1月29日(月)から「源氏物語 恋するもののあはれ展」が開催されます。
「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」も同時開催。
石山寺
石山寺
は、聖武天皇の勅願によって
東大寺
の
良弁
が開いた観音霊場。
平安時代には
藤原道長
をはじめとする貴族による石山詣が盛んに行われ、
紫式部
・
清少納言
・
和泉式部
・
藤原道綱の母
・
赤染衛門
・
菅原孝標の娘
などの女流文学者も参詣しました。
日本最古といわれる国宝の
多宝塔
は、
源頼朝
の寄進と伝えられています。
紫式部像
紫式部
は、998年(長徳4年)頃、
藤原宣孝
と結婚しますが、わずか3年後の1001(長保3年)4月25日、宣孝は疫病のため卒去。
その現実を忘れるために物語を書き始めたのだといいます。
それが評判となり、
一条天皇
の中宮・
藤原彰子
(
藤原道長
の娘)に仕えるようになります。
そして、宮仕えをしながら完成させたのが
『源氏物語』
。
源氏の間
「源氏の間」
は
石山寺
の
本堂
の相の間にある部屋。
1004年(寛弘元年)8月15日、
石山寺
に参籠中だった
紫式部
は、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て、この部屋で
『源氏物語』
を書き始めたのだといいます。
『源氏物語』
の冒頭は「桐壺」の巻ですが・・・
この日、紫式部は
「須磨」・「明石」の巻
の一節を書きとどめたのだとか・・・
在原行平(
光源氏
のモデルの一人)が蟄居を余儀なくされた須磨での日々を重ねあわせながら、
「須磨」「明石」
の両巻から書き始めたのだといいます。
紫式部の供養塔
宝篋印塔の笠を3つ重ねた
層塔
(三重宝篋印塔)は、紫式部の供養塔と伝えられ、様式から鎌倉時代のものと推定されるもので、国の重要美術品に認定されています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2023年12月19日火曜日
2024吾妻山菜の花ウオッチング~二宮町~
吾妻山公園の菜の花
は、例年、12月下旬から咲き始め、1月上旬には見ごろを迎えます。
毎年恒例のイベント「菜の花ウオッチング」は1月13日から2月18日に開催される予定。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
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