別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2025年12月19日金曜日

鎌倉検定 北条政子と源実朝の五輪塔~壽福寺の創建者は誰?~


【問】
壽福寺の墓地にある五輪塔は,源実朝とだれの墓と伝えられているか。

(第19回3級)


壽福寺には、北条政子源実朝の墓と伝えられている五輪塔があります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆




北条政子は、1225年(嘉禄元年)7月11日に逝去。

勝長寿院で荼毘に付されたのだと伝えられています。



源実朝の五輪塔


源実朝は、1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺されました。

遺体は勝長寿院に葬られましたが、首は波多野の地に葬られたのだと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』の記録からすると、北条政子源実朝勝長寿院に葬られたようですので、壽福寺の五輪塔は、供養塔として建てられたものと考えられます。

ただ、政子と実朝のものと断定されているわけではありません。

壽福寺は政子が創建したと伝えられる寺。

実朝は開山の栄西に帰依し、壽福寺の実朝の位牌には「当寺大檀那」と記されているようです。

そのため、二つの五輪塔が政子と実朝のものと伝承されてきたのかもしれません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


壽福寺

一般的に、壽福寺北条政子源頼朝の菩提を弔うために創建した寺院とされていますが、嫡男の源頼家が創建したという説も有力です。

『吾妻鏡』によると壽福寺が建てられたのは1200年(正治2年)。

前年に頼朝が亡くなり、家督を相続していたのは頼家

「壽福寺由緒書」には、「開基は頼朝公草創の本願にて頼家公創建」と記されているようです。

ただ、『吾妻鏡』には、政子が源義朝(頼朝の父)の遺跡に壽福寺を建立しようとして、二階堂行光と三善康信(善信)に亀ヶ谷の地を巡検させ、逗子の沼浜亭(義朝の館)を壽福寺に移して与えたことなどが記されていることから、建立を主導したのは政子であることは間違いないようです。

当時の慣習として、頼朝の菩提を弔うためのような公的な寺院の建立には、家督を継いだ頼家の承認が必要だったと思われます。

また、経済的援助も必要だったでしょうから、開基の名義も頼家になったのかもしれません。

頼家は、1203年(建仁3年)に比企能員の変で伊豆の修禅寺に幽閉されて、翌年暗殺されています。

歴史に「もしもはない」と言われますが、もしも頼家が何事のなく将軍を務めていたとしたならば、壽福寺の大旦那は実朝ではなく頼家だったのでしょう。

実朝のものと伝えられる五輪塔も「源頼家の五輪塔」になっていたのかも・・・


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建仁寺法堂

1202年(建仁2年)創建という京都の建仁寺の開基も源頼家のようですが、実質的な創建者は開山の栄西だったようです。


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他にもある北条政子と源実朝の墓


北条政子の宝篋印塔
(安養院)

安養院は、北条政子源頼朝の菩提を弔うために建てたという笹目長楽寺をその前身としているといいます。

安養院本堂の裏には、北条政子のものと伝わる宝篋印塔が建てられています。



源実朝御首塚
(秦野市 金剛寺)

暗殺された源実朝の首を葬ったことがそのはじまりとされる秦野市の金剛寺の近くには、源実朝公御首塚があります。

もとは「木造の五輪塔」が建てられていましたが、その五輪塔は鎌倉国宝館に寄託されています。




鎌倉検定

寿福寺


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2025年12月18日木曜日

鎌倉検定 八雲神社と須佐之男命


【問】
次の表は,鎌倉市内にある神社とその祭神や鎮守地についてまとめたものである。次の①~⑥にあてはまる語句を,漢字で書きなさい。

(第19回1級)



【答】
① 蛭子神社
② 大町
③ 須佐之男命
④ 八坂大神
⑤ 日野俊基
⑥ 熊野新宮



【問】
鎌倉最古の厄除け神社として知られるのはどこか。

(第19回2級)

【答】
八雲神社(大町)


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大町の八雲神社は、新羅三郎義光が京都の祇園八坂社(現在の八坂神社)の祭神を勧請して建立した社。

祭神は・・・

須佐之男命
(すさのおのみこと)
稲田比売命
(いなだひめのみこと)
八王子命
佐竹氏の御霊


何故、須佐之男命なのか?

かつての八雲神社の名称は「鎌倉祇園社」で「お天王さん」の愛称で親しまれてきました。

それは鎌倉祇園社が祇園精舎の守護神・牛頭天王が祀る社だったから。

明治の神仏分離によって仏教の神である「牛頭天王」や仏教用語の「祇園」が除かれました。

現在の祭神・須佐之男命は牛頭天王と同一視されてきた神。


何故、鎌倉最古の厄除け神社なのか?

新羅三郎義光が勧請した祇園八坂社は、平安時代に疫病退散を目的に発展した祇園信仰発祥の社。

日本三大祭の一つとされる祇園祭は疫病退散のために始まった祭礼です。

祇園信仰は、疫病退散・厄除けを願う信仰で、祇園祭では厄除けのお守り「粽」が授与されています。

八雲神社の祭礼大町まつりは、「天王祭」「祇園祭」とも呼ばれています。

山ノ内の八雲神社例大祭も「天王祭」と呼ばれる祇園信仰の祭礼です。


1級の問題では、扇ヶ谷の八坂大神と極楽寺の熊野新宮にも須佐之男命を書き入れるようになっていますが・・・

八坂大神は八雲神社と同じ祇園信仰の神社。

熊野新宮には極楽寺にあった八雲神社が合祀されています。




八雲神社の社名は、祭神の須佐之男命が詠んだ最古の和歌「八雲立つ 出雲八重垣妻籠に 八重垣作る その八重垣を」に因むもの。





大町八雲神社


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鎌倉検定 光明皇后が建立させた杉本寺の本堂


【問】
観音様のお告げを受けた光明皇后が本堂を建立したと伝わる寺院はどこか。

(第19回3級)


杉本寺は、行基開山と伝えられる鎌倉最古の寺。

本堂は、観音菩薩のお告げにより、光明皇后が藤原房前と行基に建立させたのだと伝えられています。


杉本寺観音堂

現在の本堂は、1678年(延宝6年)の再建。


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光明皇后は、藤原不比等の娘で、聖武天皇の妃となりました。

聖武天皇とともに仏教を深く信仰し、特に観音菩薩に帰依していたことで知られます。

京都の清水寺にある子安塔は、聖武天皇と光明皇后が御子の誕生を祈願し、無事に安産できたことから建立されたのだと伝えられています。

子安塔の本尊は千手観音。

源義経の母常盤御前が信仰していた事でも知られています。

奈良の法華寺は、聖武天皇が国家鎮護のため建立させた国分尼寺の総本山だった寺院で、本尊の十一面観音は光明皇后の姿を模して造立されたのだと伝えられています。


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杉本寺の本堂を建立したという藤原房前は光明皇后の兄。

杉本寺と同じ坂東札所の長谷寺は、房前の開基といわれています。

行基は、東大寺大仏(奈良の大仏)建立の勧進を任された僧。

東大寺は、聖武天皇と光明皇后が夭折した皇子の追善のために建てた寺が始まりです。




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杉本寺


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2025年12月17日水曜日

鎌倉検定 和田義盛の滅亡~和田合戦~


【問】
1213年(建保元)、北条義時の挑発によって兵を挙げ、一族とともに由比ヶ浜で滅亡した人物はだれか。

(第19回3級)



1213年(建暦3年)に起こったのは和田合戦

この年の2月の泉親衡の謀反で、和田義盛の甥胤長が処罰されたことで、義盛と北条義時との関係が悪化。

義盛は三浦義村や横山氏を味方につけて、5月2日、北条氏打倒の兵を挙げますが・・・

義村に裏切られるなど兵力不足の義盛は、源実朝を擁して兵を集めた義時に敗れ、5月3日、由比ヶ浜で最期を遂げました。

由比ヶ浜の和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられています。


問題には「北条義時に挑発よって兵を挙げ」と書かれています。

義時は義盛の甥が泉親衡の謀反に関わっていたのを機に挑発を始めたようですが・・・

いつごろから義盛を滅ぼそうと考えていたのでしょう?



『吾妻鏡』によると・・・

和田合戦が起こる2年半ほど前の1210年(承元4年)11月21日明け方、駿河国の建穂寺の鎮守馬鳴大明神から酉年(2013年)に戦があるというお告げがあったそうです。

同日、源実朝も夢の中でお告げを聞いたのだとか。

この前年の5月、義盛は上総国司(上総介)への任官を望みますが、翌年6月、上総国司に任命されたのは藤原秀康でした。

建穂寺の馬鳴大明神の予告は、それから5ヶ月後。

義盛が上総国司任官を望んだのは、義時に対抗できる地位が欲しかったからといわれていますが、

『吾妻鏡』の記述は、 「義盛がこの頃から反乱を起こそうと考えていたこと」、

あるいは、

「義時がこの頃から義盛を滅ぼそうと考えていたこと」

を伝えているのかもしれません。


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泉親衡(和泉小次郎親衡)は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁立し、北条義時を討とうと企て、和田合戦のきっかけを作った武将ですが・・・

京の刀工・三条宗近が祇園社(現在の八坂神社)に納めた長刀を懇望して愛用していたのだといいます。

その長刀は、祇園祭の前祭巡行の先頭を行く長刀鉾に飾られるようになりました。

そのため、長刀鉾の天王台には、小舟を肩に担ぎ大長刀を持った和泉小次郎親衡(泉親衡)の像が置かれています。



和田合戦


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2026 曽我梅林の梅まつり




約3万5000本の梅が植えられている曽我梅林の梅は、例年2月に見ごろを迎えます。

霊峰富士と箱根の山を背景に白布を敷きつめたような景色が広がります。

毎年、梅まつりが開催されていますが2026年は・・・

2月7日(土)~3月1日(日)の予定。



曽我梅林


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曽我梅林には
美味しいものがある!


梅の香うどん

杵つき餅

とん汁

生絞りみかんジュース

浅漬け大根

小田原アイス工房



曽我梅林


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2025年12月16日火曜日

鎌倉検定 島津忠久~源頼朝の御落胤?~


【問】
鎌倉時代に、将軍源頼朝と御家人島津忠久という関係で結ばれ、800年以上を経た現在でも市民有志の交流が続くなど歴史的な縁が深く、また両市共に美しい海岸線を有しているなどの地理的特徴や、国際観光都市として発展しているなど多くの共通点があることから、2023年(令和5)に鎌倉市と文化・観光交流協定を締結した都市はどこか。

(第19回2級)



2023年(令和5年)12月26日、鎌倉市は鹿児島市と文化・観光交流協定を締結しています。


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島津忠久は、薩摩国を本拠地とした島津氏の祖。

父は惟宗広言で、母は比企尼の長女丹後内侍ですが、源頼朝の御落胤という説が・・・


住吉大社誕生石


伝説によると・・・

源頼朝に仕えていた丹後局が頼朝の子を身籠もると、怒った北条政子畠山重忠に殺すよう命じます。

重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出しますが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がしたのだとか。

そして、丹後局は、摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだといいます。


住吉大社誕生石

社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。

のちに頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えます。

それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。

忠久の「忠」は、畠山重忠の一字を与えられたのだとも伝えられています。


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茅ヶ崎にはこんな伝説も。

(茅ヶ崎市)

懐嶋山の碑は、源頼朝と丹後局との間に生まれたという島津忠久の胎盤が埋められたという場所に建てられています。

「えな塚」(胞衣塚)と呼ばれてきました。

伝説によると・・・

丹後局が自分の子を身籠ったことを北条政子に知られた頼朝は、比企能員に命じて丹後局を大庭景能邸に預けました。

そして、丹後局は頼朝が建てた桜屋敷に移って男子を出産。

三郎と名付けられたそうです。

7歳になった三郎は1185年(文治元年)6月15日、鶴岡八幡宮で頼朝と対面。

そのとき「忠久」と名乗ったのだとか。


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鎌倉の源頼朝墓は、江戸時代に島津忠久の子孫・重豪が建てたものと伝えられています。

重豪は、反感を抱いていた徳川幕府に対し、頼朝の墓を建てることで、その「家柄」を示したともいわれています。

頼朝墓の東の山裾には、重豪が頼朝墓とともに整備した島津忠久の墓があります。




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