別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年4月25日月曜日

源平の庭~敦盛と直実の一騎打ち~




『平家物語』によれば・・・

一の谷の戦い熊谷直実は、波際を敗走する平家の若武者を呼び止めて一騎討ちを挑みます。

直実が組み敷いて首をとった若武者は平清盛の甥・敦盛でした。

敦盛は16歳だったとも17歳だったともいわれています。

我が子と同じくらいの齢の若者を討ち取ってしまった直実。

この事で出家を考えるようになったのだとか・・・


熊谷直実

平敦盛


須磨寺源平の庭は、敦盛と直実の一騎打ちを再現したもの。


須磨寺



一ノ谷古戦場









☆ ☆ ☆ ☆ ☆

一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い


源義経


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


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一ノ谷の戦い


一ノ谷の戦い


『吾妻鏡』によると・・・


1184年(寿永3年)1月29日、平家追討の命を受けた源範頼源義経一ノ谷へ向けて京都を発ちました。

2月5日、摂津国に到着。

2月7日を開戦と決めます。


大手口の総大将は源範頼

従うのは・・・

小山朝政・武田有義・板垣兼信・下河辺行平・長沼宗政・千葉常胤・佐貫広綱・畠山重忠稲毛重成・稲毛重朝・稲毛行重・梶原景時・梶原景季・梶原景高・相馬師常・国分胤道・東胤頼・中条家長・海老名太郎・小野寺通綱・曽我祐信・庄司忠家・庄司広方・塩谷惟広・庄家長・秩父行綱・安保実光・中村時経・河原高直・河原忠家・小代行平・久下重光をはじめとする五万六千騎。


搦手の総大将は源義経

従うのは・・・

安田義定・大内惟義・山名義範・中原親能田代信綱・大河戸広行・土肥実平三浦義連・糟屋有季・平山季重・平佐古為重・熊谷直実・熊谷直家・小河祐義・山田重澄・原清益・猪俣則綱をはじめとする二万騎。


この報を聞いた平家軍は、平資盛・平有盛・平師盛・平清家・平盛方をはじめとする七千騎余りが摂津国の三草山の西に到着。

源氏は三草山から東に布陣します。


源義経は、田代信綱土肥実平と相談をして、夜中に平資盛を襲撃。

平家は慌てふためいて逃げ散ってしまったのだといいます。


2月7日、寅剋(午前四時頃)に、源義経は、七十騎余りの精兵とともに一ノ谷の裏山鵯越に到着。

卯剋(午前六時頃)、熊谷直実・平山季重らが山陽道から一ノ谷を襲撃。

藤原景綱・平盛嗣、上総忠光平景清ら二十三騎が熊谷らと戦い、直実の子直家が負傷し、季重の家臣が討たれています。

その後、大手の源範頼軍が一ノ谷に到着。

源平の軍隊が入り乱れる中、源義経鵯越から攻め寄せます。

猪・鹿・兎・狐以外は通れない険しい山から攻め寄せられた平家軍は、その状況を考える暇もなく敗走したのだといいます。

平重衡梶原景時・家国たちに捕えられ、平通盛は源俊綱に討たれました。

そのほかに平忠度・平経俊・平知章・平敦盛・平業盛・平盛俊が討ち取られ、平経正・平教経・平師盛が捕えられています。



屋島

敗れた平家軍は屋島へ逃れました。








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い


源義経







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2022年3月28日月曜日

源頼家の誕生


二代将軍源頼家は、1182年(寿永元年)8月12日に誕生しました。


源頼家像


『吾妻鏡』によれば・・・

1182年(養和2年)3月9日、政子が懐妊し、安産祈願としての「着帯の儀」が執り行われました。

帯は千葉常胤の妻が用意し、子胤正が献じています。

頼朝自らが帯を締め、丹後局が手伝いをしたといいます。
(丹後局は、頼朝の乳母だった比企尼の娘で、安達盛長の妻です。)


3月15日、頼朝は、以前より考えていた若宮大路の造営にとりかかります。

なかなか着手できないでいたのですが、政子の安産祈願のために始められました。

頼朝自らが指揮し、北条時政らの御家人が土や石を運んだといいます。


若宮大路

段葛


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

7月12日、出産間近となった政子は、産所とした比企ヶ谷の比企邸へ移ります。

御産の間の雑事の奉行には、梶原景時が任命されています。


妙本寺

総門前には、比企能員邸跡の石碑が建てられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

8月11日、夜になって政子が産気づくと、頼朝は比企邸に赴き、祈祷のための奉幣の使者を伊豆山権現箱根権現と近国8箇所の宮社に派遣しています。


伊豆山神社
(熱海)

箱根神社
(箱根)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

翌8月12日午後6時頃、無事に男児が生まれると・・・

悪魔払いのため、大庭景義らによって「鳴弦」が、上総広常によって「引目」の儀式が行われます。

そして、午後8時頃、乳母になる河越重頼の妻が呼ばれ、初めて乳を与える儀式が行われました。
(河越重頼の娘は、頼朝の乳母だった比企尼の娘です。)


8月13日、宇都宮朝綱畠山重忠、土屋義清、和田義盛梶原景時梶原景季、横山時兼が「護り刀」を献上しています。

その他、御家人たちが献上した馬は、200頭にもなったといいます。

これらの馬は、鶴岡八幡宮をはじめとする神社に奉納されています。

その後、三夜・五夜・七夜・九夜の儀式が執り行われています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~政子の妊娠中に浮気をしていた頼朝~

頼朝は、政子が妊娠中の6月1日、妾の亀の前を小坪の小中太光家宅に住まわせています。
その後、小坪から飯島の伏見広綱の屋敷に移させ寵愛していました。

しかし、11月10日、このことが政子にばれてしまい、政子は広綱の屋敷を破壊させています。

参考:小坪路 鐙摺山(葉山) 浮気発覚!”政子激怒


源頼家








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

伊豆山神社

三嶋大社

箱根神社

箱根三社参り


富士裾野の巻狩り

比企能員の暗殺・比企氏滅亡


伊豆・箱根


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2022年2月16日水曜日

宗悟寺~東松山市:比企能員館跡~


宗悟寺


宗悟寺は、鎌倉幕府二代将軍源頼家の側室若狭局が、伊豆の修禅寺で暗殺された頼家の追福のため、比丘尼山に建立した壽昌寺を始まりとしているのだと伝えられています。

若狭局は、1203年(建仁3年)に北条時政に滅ぼされ比企能員の娘。

宗悟寺の周辺が能員の館跡だとされています。

1592年(文禄元年)、武蔵国比企郡を与えられた森川氏俊が比丘尼山の壽昌寺を現在地に移して再興し、宗悟寺と改めて菩提寺としたのだそうです。


宗悟寺


宗悟寺


宗悟寺
比企一族顕彰碑


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉の若狭局伝説

東松山市の伝説では、若狭局は武蔵国比企郡で源頼家の菩提を弔ったとされていますが、『吾妻鏡』の記事からすると・・・

比企能員の変で死んだものと考えられます(頼家より先に没している。)。


妙本寺の蛇苦止明神
(鎌倉:妙本寺)

1260年(文応元年)、北条政村(のちの七代執権)の娘は、若狭局に祟られて、蛇のような狂態を見せるようになりました。

物の怪となって現れた若狭局は比企ヶ谷の土中にいると言ったのだそうです。

鶴岡八幡宮の隆弁による加持祈祷によって快復しますが、政村は比企氏の邸跡に若狭局を蛇苦止明神として祀る社を建立したのだといいます。

※比企ヶ谷は鎌倉の比企邸があった場所。

妙本寺は比企邸跡に建てられた寺。



宗悟寺



比企能員の暗殺・比企氏滅亡






☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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