別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2021年10月27日水曜日

御岳山ケーブルカー


滝本駅と御岳山駅間を結ぶ御岳山ケーブルカー。

標高差423.6m

最大勾配斜度25度










畠山重忠

吉野山

歴史めぐり源頼朝






☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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2021年10月8日金曜日

養和の飢饉と源頼朝


1180年(治承4年)は、畿内を中心に北陸、西国では旱魃による農産物被害が甚大でした。

鴨長明は『方丈記』に、春・夏は日照りで、秋は大風と洪水で五穀がことごとく実らず、2年間、食べ物がない状況で、仁和寺の僧が数がわからないほどの死者の額に「阿」の字を書いて供養していたと記しています。


『餓鬼草子』
(奈良国立博物館)



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1180年(治承4年)8月17日に挙兵した源頼朝は、8月24日、石橋山で大敗したものの、安房に渡って軍勢を整え、10月6日(7日)には鎌倉に入り、10月20日には富士川の戦いで平氏軍を敗走させます。

敗れた頼朝が1ヶ月ちょっとの短期間で再起できたのは、各国の目代を滅ぼして平氏への連絡網を遮断したことが大きな理由ともいわれていますが、もう一つに西国の食糧難があったのではないでしょうか。

富士川の戦いで頼朝は敗走した平氏軍を追って一気に上洛してしまおうと考えたようですが、上総広常千葉常胤三浦義澄らに関東の統一が先と主張されて諦めたと『吾妻鏡』には記録されています。

しかし、すでに畿内・西国の食料不足は頼朝も知っていたでしょうし、攻め入ろうにも兵糧の調達ができないことは分かっていたはずです。

平氏軍の敗走にしても、兵糧不足で兵士の士気が上がらなかったのだという説もあります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

その後は反平氏の行動が拡大。

平氏軍は12月に平清房が延暦寺の堂舎を焼き、平重衡が東大寺興福寺を焼亡させ、翌年4月には墨俣の戦いで勝利しますが、それ以後は戦線を維持するのが精一杯で疲弊していったようです。

1183年(寿永2年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破った木曽義仲が入京しますが、平氏が敗れた要因には飢饉による兵糧不足もあったのでしょう。

そして、食糧難の都では、大量の兵が入ってきたことで、略奪行為が横行したそうです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

その間、頼朝は東国の整備に専念していたようです。

1180年(治承4年)10月の富士川の戦いの翌月には、常陸の佐竹秀義を攻め(佐竹征伐)、さらに、足利氏と新田氏を帰属させて、関東を支配下に入れました。

12月には御所が完成。

頼朝は鎌倉の主に推戴されています。

翌1181年(養和元年)には仮宮だった鶴岡八幡宮に新たな社が造営されました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

そして1183年(寿永2年)10月14日、木曽義仲の横行に困った後白河法皇は「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ」 という内容の宣旨を交付しました(寿永二年十月宣旨)。

この宣旨によって、東国における頼朝の支配権が承認されました(これより前の10月9日には、従五位下の位に復帰しています。)。

翌11月には、寿永二年十月宣旨に基づく年貢納入を理由に源義経を近江国に派遣し、木曽義仲の動向を探らせています。

おそらく、この頃には飢饉の影響もだいぶ少なくなってきたのかと思われます。



源頼朝挙兵


歴史めぐり源頼朝







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2021年10月7日木曜日

以仁王の令旨は文覚が頼朝に届けたという噂!~伝説の八坂不動明王~


源頼朝が流人生活を送っていた伊豆国

そこには怪僧と呼ばれた文覚も流されてきました。

後白河法皇神護寺再興の訴えを起こしたことで、法皇の怒りを買ってしまったのだそうです。

文覚上人荒行像
(鎌倉:成就院)

文覚は、元は遠藤盛遠といい、北面の武士として朝廷に仕えていました。

同僚の渡辺渡の妻・袈裟御前に懸想をし、渡を殺してしまおうとしたところ、誤って袈裟御前を殺してしまい僧になったという人物。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

伊豆国へ流された文覚は、頼朝が流されていたという蛭ヶ小島に近い奈古谷に庵を結んだのだといいます。

毘沙門堂
(伊豆の国市)

毘沙門堂文覚が庵を結んだという場所に建つ堂で、頼朝はここで源氏再興の挙兵を勧められたのだといいます。

そして、1180年(治承4年)がやってきます。

京都では平清盛の人気は急降下。

そんな時、赦免されて京都に帰っていた文覚が、再び伊豆の頼朝の前に現れます。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

伝説によると・・・

文覚は不動明王像を担いでいました。

この不動明王像は、八坂の塔が傾いてしまったときに、浄蔵貴所が祈祷の本尊としたもので、長く神護寺に置かれていたのだといいます。

文覚はその不動明王像に以仁王の令旨を隠して頼朝に届けたのだとか・・・

さて、その不動明王像は今どこにあるのか???

鎌倉の浄光明寺不動堂に祀られている不動明王像は「八坂不動明王」と呼ばれています。


浄光明寺不動堂

浄光明寺源頼朝文覚に命じて建てさせた堂がそのはじまりとも言われています。

八坂不動明王は大晦日の晩、除夜の鐘が撞かれる頃に開帳されます。



948年(天暦2年)、八坂の塔は皇居の方へ傾いてしまったのだそうです。

それを法力で戻したのが浄蔵貴所だったのだとか。


神護寺

神護寺は弘法大師ゆかりの寺。

平安時代後期には衰退してしまいますが、源頼朝の助勢を受けながら文覚が再興しました。







☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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2021年9月20日月曜日

吾妻鏡が伝える奥州平泉の達谷窟毘沙門堂


1189年(文治5年)、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、9月28日、平泉を発ち、鎌倉への帰路につきます。

その途中に立ち寄ったのが達谷窟毘沙門堂




『吾妻鏡』によると、

「達谷窟は、坂上田村麻呂らが、夷を征伐したときに、賊徒の頭・悪路王と赤頭が砦を構えていた岩屋。

田村麻呂は、この岩屋に寺院を建立し、鞍馬寺を模して多聞天像を安置。

寺の名を西光寺とし、水田を寄付した」

のだといいます。


岩面大仏


達谷窟毘沙門堂西側の岸壁に刻まれた磨崖仏は、岩面大仏と呼ばれ、後三年の役の犠牲者を敵味方なく供養するために源義家が彫り付けたものと伝えられています。


弁天堂

不動堂

姫待滝






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奥州平泉


松尾芭蕉のおくのほそ道







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源義経

藤原秀衡

源義経最期の地

源平合戦

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宿老13人の合議制


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