1585年(天正13年)、大和郡山城に入った豊臣秀長は、多武峯の僧徒に対して武器の提出を命じ、郡山城下に寺を移す政策をとります。
多武峯(とうのみね)は、645年(皇極天皇4年)の大化の改新で中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が蘇我入鹿の暗殺を計画したという地。
669年(天智天皇8年)に没した鎌足は、摂津国阿威山に葬られますが、のちに多武峯に改葬され、妙楽寺が建立されたのだと伝えられています。
701年(大宝元年)には、鎌足の木像(大織冠霊像)を祀る聖霊院が建立され、これらを総称して多武峯寺といったのだといいます(単に多武峯とも呼ばれました。)。
秀長が大和郡山城に入城した1585年(天正13年)当時、多武峯は多くの僧兵を抱え、興福寺と衝突を起こしていました。
秀長は刀狩りを行って武器を没収、1587年(天正15年)には僧兵が離散して僧侶の一部が残された寺を郡山城下に移転させました。
1588年(天正16年)、多武峯に残されていた大織冠霊像も郡山城下に遷座。
体調を崩した秀長の快復祈願も込めての遷座だったようですが・・・
秀長の体調は悪化し、郡山城中でも怪異現象が起こったため、1590年(天正18年)、大織冠霊像は多武峯に戻されたのだとか。
秀長は、1591年(天正19年)1月22日、郡山城で病死。
大納言塚は秀長の墓所。
秀長の病は、藤原鎌足の祟りとも噂されたのだとか。
参考までに・・・
郡山には大織冠鎌足神社がありますが、大織冠尊像を祀る大織冠宮を始まりとし、宝暦年間(1751-64)、現在地へ遷宮されたのだと伝えられています。
大織冠とは、藤原鎌足が死の間際に天智天皇から授けられた最上位の冠位。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆