別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年9月13日土曜日

運慶と鎌倉


(六波羅蜜寺)


運慶は奈良仏師の傍流で、父の康慶から始まる一派は「慶派」と呼ばれました。

慶派の仏師は、1180年(治承4年)の南都焼討で灰燼に帰した東大寺興福寺の仏像の復興事業で活躍。

運慶は・・・

1203年(建仁3年)に東大寺南大門の金剛力士像を造立し、その功績からの僧綱位の極位である法印となります。

僧綱位は、仏師としての地位で下から法橋・法眼・法印。

1212年(建暦2年)には興福寺北円堂の諸仏を造立し、武家の都「鎌倉」にも大きな影響を与えました。


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『吾妻鏡』によると・・・

1216年(建保4年)、源実朝の持仏堂の本尊・釈迦如来

1218年(建保6年)、北条義時大倉薬師堂の薬師如来

1219年(承久元年)、北条政子の依頼による勝長寿院の五大尊像

を造立していますが、残念ながら、これらの仏像は現存していません。

現存しているものとしては、金沢の称名寺大威徳明王

像内文書から1216年(建保4年)に、実朝の養育係だった大弐局の発願で造立されたことが判明しています。


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それ以前にも、運慶は鎌倉武士と関係がありました。

北条時政が伊豆に建てた願成就院には、1186年(文治2年)に時政の発願によって造立された諸仏が現存、

和田義盛が横須賀に建てた浄楽寺には、1189年(文治5年)に義盛の発願によって造立された諸仏が現存しています。



願成就院の運慶仏

浄楽寺の運慶仏


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源頼朝はどうだったのか?

1185年(元暦2年)、勝長寿院を建立しますが、鎌倉に呼ばれたのは奈良仏師の正系・成朝でした。

何故、康慶や運慶ではなく成朝に依頼したのか?

それは、頼朝が系統や血筋を重視するタイプだったからと考えられています。

奈良仏師は平等院の阿弥陀如来像を造立した定朝の流れをくむ仏師集団。

成朝は定朝の嫡流でした。

当時、奈良仏師の中で僧綱位にあったのは運慶の父康慶のみでしたが、それでも頼朝は無位の成朝を選んでいます。


それでは、頼朝は運慶に造仏依頼をしなかったのでしょうか?

1192年(建久3年)、頼朝は永福寺を建立しています。

近年では永福寺の造仏は運慶が担当したのではないかとする説があるようです。

永福寺が建立された年、のちに三代将軍となる実朝が誕生していますが、誕生時の祈願所となった横須賀の曹源寺の十二神将像は運慶周辺の仏師によるものと考えられ、永福寺の薬師堂にあった十二神将像の模刻ともいわれています。


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日本の各地に運慶作とされる仏像は数多く存在しますが、運慶の真作とされているものは僅か。

鎌倉では・・・

光触寺阿弥陀如来像(頬焼阿弥陀の伝説)

杉本寺十一面観音像 (頼朝寄進の御前立)・地蔵菩薩像・仁王像

教恩寺阿弥陀如来像南都焼討をした平重衡念持仏で頼朝が重衡に与えたものと伝えられています。)

延命寺地蔵菩薩像

補陀洛寺の日光・月光菩薩像

来迎寺の阿弥陀三尊像

英勝寺阿弥陀三尊像

圓應寺閻魔大王像

などが運慶作と伝えられていますが、真作とされたものはありません。




運慶


運慶 祈りの空間


運慶願経








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東大寺大仏殿にも運慶仏があった!
東大寺大仏殿

東大寺南大門の金剛力士像は
運慶作!
東大寺南大門

興福寺北円堂の
南都焼討後の復興仏は運慶作!
興福寺北円堂


東大寺

興福寺



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