別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年10月27日木曜日

波多野忠綱と三浦義村の言い争い~和田合戦~


『吾妻鏡』によると・・・

1213年(建暦3年)5月4日、非難していた法華堂から東の御所(北条政子の御所)に移った将軍源実朝は、西御門和田合戦で怪我をさせられた者と対面(およそ188人)。

合戦の調査・確認を行なった。

次に、勲功の大小を尋ねるのだが、波多野忠綱と三浦義村の主張に食い違いが・・・

忠綱は

「米町と政所前での先陣」を主張し、

義村は

「米町の事については異論はないが政所前の合戦では自分が先陣」と主張して言い争いを始めてしまう。

北条義時は忠綱を呼び寄せて

「この度の合戦での勝利は、義村和田義盛を裏切ったことが大きい。

穏便に事を済ませてくれれば破格の褒賞は疑いない」

と諭すのだが、

忠綱は

「武士が戦場に向かうときは先陣を目指すもの。

弓馬に携わる者として一時の褒賞に心を奪われ、先々までの名誉を汚すことはできない」

と反論するので、将軍実朝の御前で真実を明らかにすることに。

義時大江広元・二階堂行光が控える中、まず義村

義盛が襲来した時、義村は政所前を南に馳せ向い、矢を放ちましたが、塵一つとしてその前を飛んでいく物はありませんでした」

と主張。

すると忠綱は

「忠綱一人が先陣を切りました。

義村は我が子の経朝・朝定の後陣でした。

にも拘わらず、忠綱を見ていないとは、盲目なのでは」

と主張するので、合戦に参加した戦士たちから話を聞くことに。

その話によると・・・

先陣を切ったのは「赤皮威の鎧を着用し、葦毛馬に乗馬した者」だったのだという。

それは忠綱のこと。

葦毛馬は義時から拝領したもので「片淵」と呼ばれていたのだとか。

しかし・・・

5月7日、忠綱の手柄については疑いのないところだが、褒賞については義村を盲目扱いしたため、子の経朝へ行われている。






和田合戦


和田義盛


三浦義村








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