護良親王は、後醍醐天皇の皇子。
梶井門跡(現在の三千院)に入室し、天台座主(比叡山延暦寺の貫主)となって大塔宮と敬称されていました。
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕のための元弘の乱を起こすと、護良親王は還俗して倒幕運動に参戦。
足利高氏(尊氏)、新田義貞の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡します。
しかし、足利尊氏と対立して、1334年(建武元年)11月15日、鎌倉に幽閉されてしまいました。
土牢に押し込められた護良親王は、妃の南の方以外の付き添いは許されなかったそうです。
鎌倉宮には、護良親王が幽閉されていたという土牢が残されていますが、このような岩窟ではなく、土蔵造りの牢屋だったともいわれています。
護良親王は、約9ヶ月間にわたって幽閉生活を送ります。
そして、1335年(建武2年)7月、北条高時の遺児時行が反乱を起こし、鎌倉を守っていた足利直義軍を破ります。
時行が護良親王を奉じることを恐れた直義は、7月23日、淵辺義博に命じて護良親王を殺害しました。
親王の首は理智光寺の僧によって葬られたのだと伝えられています。
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~妹の用堂尼は東慶寺へ~
東慶寺五世の用堂尼は護良親王の妹。
親王の菩提を弔うために東慶寺に入山したのだといいます。
~子の日叡は妙法寺を建立~
(妙法寺)
妙法寺開山の日叡は、護良親王と南の方の子。
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(比叡山延暦寺)
(吉野山)