かわいいフリー素材「いらすとや」より
宇都宮頼綱は、下野宇都宮氏の五代当主。
頼綱は弁明書を北条義時に提出して出家。
その後、法然の門下となって京都嵯峨の二尊院近くに住み、藤原定家の子為家に娘を嫁がせています。
清巌寺の頼綱の墓碑には「実信房蓮生法師」と刻まれています。
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~障子の色紙と小倉百人一首~
1235年(嘉禎元年)5月、頼綱は、定家に山荘の障子を装飾するための色紙の執筆を依頼します。
それに応じた定家は、天智天皇から順徳院までの100人の歌人の和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためました。
これが『小倉百人一首』の原型といわれ、後に鳥羽、順徳両天皇の作品が加えられて補訂を施された和歌集が『小倉百人一首』なのだとか。
宇都宮頼綱の墓碑(中央)
清巌寺の頼綱の墓碑には「実信房蓮生法師」と刻まれています。