(第11回鎌倉検定試験1級)
三浦義明は、三浦半島に拠を置いた三浦一族の総帥。
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、義明は頼朝に味方しますが、畠山重忠らに衣笠城を攻められ討死しました。
材木座の来迎寺は、1194年(建久5年)に頼朝が義明の菩提を弔うために建立した能蔵寺を始まりとしています。
(来迎寺)
多々良重春は義明の孫で、畠山重忠との小坪合戦で討死しました。
(横須賀)
能蔵寺が建てられたのと同じ年、頼朝は義明の本拠地にも、義明を供養するための満昌寺を建立しています。
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~小坪・衣笠合戦~
1180年(治承4年)8月22日、三浦一族は、源頼朝を応援するため三浦を発ち、23日には酒匂川まで進軍します。
しかし、折からの雨で酒匂川を渡ることができず、石橋山の戦いに間に合うことができませんでした。
翌8月24日、頼朝の敗戦を知った三浦軍は、仕方なく帰路につきます。
しかし、その途中の由比ヶ浜で畠山重忠軍に遭遇して合戦となってしまいます(小坪合戦)。
この合戦で、三浦義明の孫多々良重春が討死しています。
一方の畠山軍も多数の被害を受けました。
8月26日、畠山重忠は、「平家の重恩に報いるため」と「由比ヶ浜の雪辱のため」に、三浦軍を攻撃します。
このとき、河越重頼と江戸重長に協力を要請しています。
三浦一族は、衣笠城に立て籠もり、
東木戸(大手口)は、三浦義澄・佐原義連
西木戸は、和田義盛・金田頼次
中陣は、長柄義景・大多和義久
が配置されます。
そして、河越重頼ら数千騎が攻めてきました。
義澄らもよく戦いますが、由比ヶ浜での合戦の疲れもありましたし、矢も不足してきたので城を捨てることにします。
しかし、三浦義明は、
「源家累代の家人として、幸せなことに貴種再興の時に出会えた。
わしの歳は80を越えているので、先は幾らでもない。
今、この命を頼朝様に捧げて、子孫の勲功としたい。
お前達は急いで退去し、頼朝様を尋ねよ。
わしは、城に残り、河越重頼に多勢の兵がいるように見せかける」
といって城を出ませんでした。
義澄らは、泣きながら義明の命に従うことにします。
8月27日、三浦義明は、河越重頼と江戸重長の軍に討ち取られました。
(城内で自刃したとも伝わっています。)
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~百六つ義明公~
江戸時代に門付歌に「鶴は千年、亀は万年 三浦大介百六つ」というのがあったそうです。
※門付とは、門前で音曲などを奏する芸。
これは、源頼朝が三浦義明の17回忌で「あなたは今も私の中で生きている」と述べたことに始まっているのだとか。
義明が亡くなった89歳に17歳を足して「百六つ」。
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