『吾妻鏡』によると・・・
1189年(文治5年)7月18日、源頼朝は伊豆山権現の專光房良遷を呼びつけて、御所の裏山に持仏堂を建立するよう命じます。
その理由は、奥州征伐の成功を良遷に祈願させるため。
本尊は、頼朝の持仏の二寸銀の聖観音像。
頼朝は、社殿はあとで建てるので、奥州征伐に出発して20日目に柱だけを建てるよう命じます。
この時、北条時政も、伊豆国の北条郷に寺を建てて、奥州征伐の成功を祈願することを思いついたそうです(建てられたのが願成就院。)。
翌日、頼朝は奥州征伐に出陣しています。
8月8日早朝、良遷は御所の裏山によじ登り、柱を四本建てて観音堂と名付けました。
頼朝とは出発してから20日後と約束していましたが、夢のお告げがあったので、この日にしたのだそうです。
この日は、阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)が始まった日でした。
伊豆山神社は、伊豆山権現・走湯権現とも呼ばれ、源頼朝や北条政子が信仰した社。
願成就院は、1189年(文治5年)に北条時政が源頼朝の奥州征伐の成功を祈願して建てたという寺院。
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~持仏堂の本尊は聖観音像~
『吾妻鏡』によると・・・
1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いで大敗した源頼朝。
山中に逃れて巌窟に身を潜めます。
そのとき頼朝の髷には二寸の銀の聖(正)観音像が入れられていました。
この像は、頼朝が三歳のときに、乳母が清水寺を参って、頼朝の将来を祈ったところ、14日を過ぎた時に夢のお告げがあって、突然に手に入れたものなのだとか。
巌窟を立ち去る時、頼朝はこの観音像を置いて逃げました。
なぜならば・・・
大庭景親らの平家方に捕まったときに「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考えたからなのだそうです。
その後、鎌倉に入った頼朝は、11月、專光坊良暹に巌窟に置いてきた観音像を探すよう命じます。
そして、12月25日、良暹の弟子僧が観音像を探し出し、鎌倉の頼朝に届けられています。
奥州征伐の祈願所として建てられた持仏堂の本尊は、この観音像だったのだといいます。
(湯河原町)
しとどの窟は、石橋山の戦いで敗れた頼朝が隠れ潜んだ所と伝えられています。
清水寺は西国三十三箇所の観音霊場。
源義経の母常盤御前も信仰していたのだと伝えられています。
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1199年(建久10年)正月13日に亡くなった源頼朝。