別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2019年7月9日火曜日

源頼朝の持仏堂~本尊は清水寺から下された聖観音像~


『吾妻鏡』によると・・・

1189年(文治5年)7月18日、源頼朝伊豆山権現の專光房良遷を呼びつけて、御所の裏山に持仏堂を建立するよう命じます。

その理由は、奥州征伐の成功を良遷に祈願させるため。

本尊は、頼朝の持仏の二寸銀の聖観音像。

頼朝は、社殿はあとで建てるので、奥州征伐に出発して20日目に柱だけを建てるよう命じます。

この時、北条時政も、伊豆国の北条郷に寺を建てて、奥州征伐の成功を祈願することを思いついたそうです(建てられたのが願成就院。)。


翌日、頼朝は奥州征伐に出陣しています。


8月8日早朝、良遷は御所の裏山によじ登り、柱を四本建てて観音堂と名付けました。

頼朝とは出発してから20日後と約束していましたが、夢のお告げがあったので、この日にしたのだそうです。

この日は、阿津賀志山の戦い(あつかしやまのたたかい)が始まった日でした。


伊豆山神社

伊豆山神社は、伊豆山権現・走湯権現とも呼ばれ、源頼朝北条政子が信仰した社。



願成就院は、1189年(文治5年)に北条時政源頼朝奥州征伐の成功を祈願して建てたという寺院。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~持仏堂の本尊は聖観音像~

『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いで大敗した源頼朝

山中に逃れて巌窟に身を潜めます。

そのとき頼朝の髷には二寸の銀の聖(正)観音像が入れられていました。

この像は、頼朝が三歳のときに、乳母が清水寺を参って、頼朝の将来を祈ったところ、14日を過ぎた時に夢のお告げがあって、突然に手に入れたものなのだとか。

巌窟を立ち去る時、頼朝はこの観音像を置いて逃げました。

なぜならば・・・

大庭景親らの平家方に捕まったときに「観音像を本尊としていたのでは源氏の棟梁らしくない」と非難されてしまうと考えたからなのだそうです。

その後、鎌倉に入った頼朝は、11月、專光坊良暹に巌窟に置いてきた観音像を探すよう命じます。

そして、12月25日、良暹の弟子僧が観音像を探し出し、鎌倉の頼朝に届けられています。

奥州征伐の祈願所として建てられた持仏堂の本尊は、この観音像だったのだといいます。


しとどの窟
(湯河原町)

しとどの窟は、石橋山の戦いで敗れた頼朝が隠れ潜んだ所と伝えられています。


清水寺

清水寺は西国三十三箇所の観音霊場。

源義経の母常盤御前も信仰していたのだと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝墓

1199年(建久10年)正月13日に亡くなった源頼朝

亡骸は、持仏堂に葬られたのだと伝えられています。

頼朝亡き後、持仏堂は法華堂と呼ばれるようになりました。

のちに、頼朝が平治の乱の初陣で帯びた源氏重代の太刀「髭切」も法華堂に安置されたのだと伝えられています。

現在、持仏堂があった場所には、江戸時代に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)によって多層塔が建てられています。。






☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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