1224年(元仁元年)12月、関東諸国で疫病が流行します。
これに罹った人々は薬も水も喉を通らず、高熱を発し、狂乱して幾日も経たないうちに死んでいきました。
(今でいうインフルエンザなのかも。)
村里や家々では嘆き悲しむ声がつづき、亡骸を葬る墓が不足するほどでした。
この事態に、北条泰時は陰陽権助(臨時次官)安陪国道を招いて、疫病の流行を止める方法を相談しました。
国道は、
「昔から今に至るまで、このような事は例がないわけではありません。
疫病神が世間に生き渡れば、人々はきっとその毒気にあたり、病気になって患います。
この原因は必ずや上に立つ者の政治が乱れており、下々の者の行いがよこしまなので、天地の神がこれを感じ、疫病神が現れて、禍が生じるのです。
病気の災いだけでなく、火災・水難までも悪鬼のしわざでないということは言えません。
上に立つ者は心清らかで私欲のないな政道を進め、徳政を行えば、下々の者はその恵みを授かり、上下の者が安泰となれば、天地の神がそれを感じて、人々を擁護しようと目を配ってくれます。
そうすれば、悪鬼は遠くへ逃げ去り、世の中は人情厚く偽りのない気風となり、人々は物が豊かで楽しい生活ができるでしょう。
その昔、一条院の長保3年(1001年)に疫病が大流行したので、5月9日に京の紫野に疫神を祀って社を建てて鎮められました。
勅使となった藤原長能は
「今よりはあらぶる心ましますな花の都に社定めつ」
(疫神さま、今からは乱暴な心をお持ちにならないでください。美しい花の都に社を建てましたのでその花のようにやさしくなってください。)
と詠んでいます。
社とは今宮神社のことです。
これを考えますと、鎌倉の四方の境で鬼気の祭(四角四境祭)を行われるのがよいと思います」
と答えたそうです。
(京都)
国道の話を聞いた泰時は、国道にその祭を行うよう命じ、東は六浦、南は小坪、西は稲村、北は山内の四方の境で祭事が行われます。
これによって、間もなく疫病は発生しなくなったのだとか・・・
(鎌倉山ノ内)
『吾妻鏡』によると、四角四境祭が行われたのは12月26日。
斎場の詳細は記されていませんが、山内では八雲神社が斎場になったのだと伝えられているようです。
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