1180年(治承4年)に旗挙げし、1189年(文治5年)の奥州征伐によって藤原泰衡を滅ぼした源頼朝は、10年にも及ぶ戦乱の世に終止符をうちました。
思い起こせば、富士川の戦いでは、敗走する平氏を追って上洛をしようとした頼朝ですが、千葉常胤・上総広常・三浦義澄らの反対で上洛を断念します。
以来10年の時が経過していました。
それだけ奥州藤原氏の存在が大きかったのでしょう。
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~ 上 洛 ~
奥州征伐によって背後の脅威を取り除いた頼朝は、1190年(建久元年)に上洛を果たします。
10月3日、一千余騎の精兵をひきつれ鎌倉を発った頼朝は、11月7日に入洛。
先陣は畠山重忠がつとめ、三騎ずつ並んだ随兵60組の後に、折烏帽子、紺青の水干袴に白のむかばきをはき、黒毛の名馬にまたがった頼朝が進みます。
後陣は千葉常胤がつとめ、先陣と同じく40組の騎馬武者が続いていました。
後白河法皇は、威風堂々とした頼朝の入京の様子を、賀茂の河原で見物したといいます。
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~後白河法皇との会談~
11月9日、頼朝は六条殿(院御所)に参り、はじめて後白河法皇に謁見します。
何が話し合われたのかは定かではありませんが・・・、
義経逮捕の理由で保持してきた日本国総追捕使・総地頭の地位が、一般的な治安警察権の行使のために、あらためて頼朝に与えられたことは確かなことのようです。
(参考:守護・地頭の設置)
しかし、頼朝が望んでいた征夷大将軍の地位は与えられませんでした。
ただ、代わりに権大納言に任じられ、11月20日には常置の武官としては最高の位置にある右近衛大将に任じられました。
これを受けた頼朝は、12月1日、盛大に拝賀の儀式を行いますが、12月4日には両職を辞し、単なる王朝の侍大将ではなく「武家の棟梁」であることを天下に示しています。
そして、12月14日には鎌倉へ帰っています。
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九条兼実
この上洛で頼朝は、九条兼実とも会談をしています。
その中で次のように述べたといいます。
「いまの世は法皇が思うがままに天下の政治をとり、
天皇とても皇太子と変わりないありさま。
目下のところはいたしかたないが、
さいわいにあなたもお若くてまだ先が長い。
私にも運があれば、
法皇御万歳の後には天下の政を正しくする日がやってくるでしょう」
1192年(建久3年)、後白河法皇が崩御し、頼朝は念願の征夷大将軍に任じられています。
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