1336年(建武3年)、後醍醐天皇の建武の新政から離脱した足利尊氏は、後醍醐天皇から光明天皇へ神器の授受が行われると、11月7日、「建武式目」を制定します。
「建武式目」は二項十七条からなるもので、答申書という形で作られた法令で、鎌倉幕府の政務に携わっていた二階堂是円・真恵兄弟ら8人が答申者となっています。
第一項には、「鎌倉を武家政治の本拠とすべきか」について答申がなされています。
その内容は・・・、
「鎌倉は源頼朝が幕府を開き、北条義時が天下を併呑した吉土であるから、本拠と定めるべき。
北条氏が滅亡したという不吉な地という批判もあろうが、それは北条氏が驕り極めて悪政を重ねたからであり、場所が凶だからではない。
ただ、鎌倉を離れたいという者が多ければそれに従うべき」
というものです。
第二項は、政道についてで、
「鎌倉幕府の全盛期の政治を模範とし、民を安んずることをもって、政治の至要とすべき」
として、その指針となる十七ヵ条が列挙されています。
この十七ヵ条という数は、聖徳太子の「憲法十七条」によったという説があるようです。
そういえば・・・
北条泰時が制定した「御成敗式目」は五十一ヵ条ですが、これも憲法十七条の三倍の数にしたということでした。
※「御成敗式目」と「建武式目」を合わせて「貞建の式条」と呼ばれています。
鎌倉幕府の成立と同じように、室町幕府がいつ成立したのかという問題には議論があるようですが、政治方針を明らかにした文書「建武式目」が作成されたこのときとする説が有力のようです。
「建武式目」制定から2年後の1338年(暦応元年/延元3年)、足利尊氏は光明天皇より征夷大将軍に任じられています。