鎌倉の発掘現場では、ほとんどの場合に銭が掘り出されているといいます。
2010年(平成22年)に公開された下馬周辺遺跡でも発掘されています。
発掘調査では、鎌倉中期以降、銭が増え出していることがわかっているそうです。
我が国では、「乾元大寳」(958年)以来銭の鋳造は行われていません。
鎌倉時代に使われていたのは中国からの渡来銭でした。
鎌倉で銭の話として知られているのは東勝寺橋の青砥藤綱の伝説ですが、藤綱が落としたという10文銭も渡来銭だったということになります。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1252年(建長4年)に鋳造が開始されたという鎌倉大仏は、中国宋からの銅銭で造られたのではないかということが言われています。
鎌倉大仏の成分分析の結果、宋銭に近い成分であることが判明しています。
これは、「宋銭を使って鎌倉大仏が鋳造された」か、あるいは、「宋銭を鋳造する技術と同じ技術が用いられた」ということになります。
鎌倉大仏は僧浄光の勧進によって造られたといわれています。
浄光は人々から一文ずつの銭の寄附を願ったともいわれています。
また、鎌倉幕府は、人身売買を取締り、商人から没収した銭を大仏建立のために寄附したともいわれています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『吾妻鏡』には、五大堂明王院の洪鐘の鋳造について、
1235年(嘉禎元年)6月19日の条には
「洪鐘を鋳るが銅不足で鋳損じてしまった」ことが、
同年6月29日の条には
「先日銅銭三百貫文をもってこれを鋳損ず。今度三十余貫。成功殊勝と云々」
とあって、洪鐘の鋳造に銅銭が使われたことが記されています。
この記事でわかることは、銭は通貨として使用されていただけでなく、銅素材としても使用されていたということです。
とすると・・・
鎌倉大仏も五大堂明王院の洪鐘と同じく、浄光が人々から寄附を受けた銭や幕府からの寄附された銭で造られたとしても何らおかしなことではないようです。
成分結果が宋銭と同じということから考えても、宋から渡来した銅銭で造られたと考えていいのかもしれません。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『吾妻鏡』によると、鎌倉大仏は、1243年(寛元元年)6月16日に完成して供養が行われたことが記されています。
『東関紀行』の著者は、その前年に完成に近い大仏を見ているようです。
その大仏は木製だったといいます。
そして、『吾妻鏡』には、1252年(建長4年)8月17日から金銅の大仏が造り始められたことが記されています。
これが現在の鎌倉大仏であろうと考えられていますが、いつごろ完成したのかはわかっていません。
現在では、最初に造られた木造の大仏が壊れてしまったので、金銅の大仏を造り始めたとされているようですが、木造の大仏を原型として金銅の大仏が造られたという説もあったそうです。
いずれにしても鎌倉大仏は謎の多い仏像です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
大仏の鋳造が開始された時の執権は北条時頼。
ただ、時頼は大仏建立にどう関わっていたのかは不明です。
建長寺もこの時期に創建されています・・・。
建長寺の国宝梵鐘を鋳造した物部重光は、大仏の鋳造も手掛けたものと考えられています。