1218年(建保6年)2月4日、北条政子が熊野参詣のため、弟の北条時房を連れて鎌倉を出発しました。
その折、京都にも滞在しています。
・・・というより真の目的は上洛にあったようです。
~将軍継嗣問題~
『愚管抄』によれば、上洛した政子は、子ができない将軍源実朝の跡継ぎについて、後鳥羽上皇の乳母藤原兼子に皇族将軍の斡旋を相談しています。
当時、兼子は、後鳥羽上皇の皇子冷泉宮頼仁親王の養育を任され、絶大な権力を持っていたといいます。
頼仁親王は実朝の妻坊門信子の甥にあたります。
そして、2人の間では、頼仁親王を次期将軍とする約束が交わされていたと考えられています。
※『吾妻鏡」によれば、実朝は、「源氏の正統は自分の代で絶えるから、せめて官職を帯び、家名を上げたいと思う」と語っていたといいます。
参考:昇進を重ねた源実朝
源実朝像 |
~政子を従三位に叙す~
『吾妻鏡』によれば、
政子は、京都滞在中の4月14日、従三位に叙せられています。
出家の者の叙位は、男性の場合、道鏡以外には例がなかったようですが、女性の場合、安徳天皇の外祖母二位の尼(平清盛室)や藤原忠実の母の叙位の例があったそうです。
それにならっての叙位だったといいます。
15日には後鳥羽上皇に対面する機会にもめぐまれますが、
「田舎育ちの老尼が、上皇様のお顔を拝謁しましても失礼申し上げるばかり」
として辞退し、諸寺礼拝の志を投げ打って京を去ったそうです。
鎌倉へは29日に戻っています。
※「政子」という名は、従三位に叙せられたときに、父時政の一字とって命名されたといいます。
※政子は、10月13日には従二位に叙せられています。
~実朝の死と親王将軍の要請~
政子の上洛からわずか9ヶ月後の1219年(建保7年)正月27日、実朝が暗殺され、早くも藤原兼子と交わした親王の東下の約束が現実ものとなります。
(※政子が親王の東下を藤原兼子と約束したのが前年の春のこと。この時すでに、「実朝の死が予定されていた」とも考えられる準備のよさです。)
さっそく政子は二階堂行光を京都に使わし、2月13日、親王の東下を要請させています。
しかし、後鳥羽上皇は、「いずれ誰かを下向させる」として、幕府の要請を拒絶し続けました。
※後鳥羽上皇は、藤原兼子を遠ざけていたようです。
後鳥羽天皇像 |
~地頭職解任問題~
その一方で、 後鳥羽上皇 は、寵愛する伊賀局の所領摂津国長江・倉橋両荘の地頭職の解任を幕府に要求し、その出方をうかがっています。
『吾妻鏡』によれば・・・
3月9日、後鳥羽上皇の使者藤原忠綱が鎌倉の政子邸に到着し、実朝の死を弔うとともに、摂津国長江・倉橋両荘の地頭職を改補するよう要求しているようです。
御家人の所領安堵で成り立つ鎌倉政権にとって、このような要求を受け入れることはできません。
3月12日、義時、時房、泰時、大江広元が政子邸に参集し、後鳥羽上皇の要求を拒絶することを決定しています。
※「頼朝の補任した地頭職は改補しない」というのが鎌倉幕府の原則です。
3月15日には、 時房が一千騎の兵を引き連れて上洛し、地頭職廃止の拒絶を伝えるとともに、親王将軍の東下を要請しています。
しかし、後鳥羽上皇は、地頭職の解任を再要求し、親王の東下を拒絶しました。
結局、幕府は親王将軍と地頭職廃止の問題を取引することなく、地頭職保障の態度を貫き通し、親王将軍を諦め、左大臣九条道家の子三寅(2歳)を将軍として迎えることとなります。
『愚管抄』は、後鳥羽上皇の意向を
「天皇と将軍が兄弟となったら国家の統一ができなくなる。
将来の日本国を二つに分裂する原因をつくることはできない。
摂関家の子であれば許可しよう」
と伝えています。
ちなみに『吾妻鏡』は、4月、5月、6月が欠落しています。
7月19日、三寅が鎌倉に下向し、政子は幼い三寅(のちの頼経)の政務を代行することとなります(尼将軍の誕生です。)。
北条政子像 |
※後鳥羽上皇は、実朝の死によって鎌倉殿を失った幕府を自壊に導こうとしていたようですが失敗に終わりました(後鳥羽上皇の思いは、のちに「承久の乱」へと発展します。)。
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鎌倉との繋がりを求めて!