御所で将軍を饗応する行事を「垸飯」(おうばん)といいます。
特に正月に行われる饗応を「正月垸飯」と呼んだそうです。
「椀飯」とも書かれるようですし、「大盤振る舞い」という言葉の語源ともなったようです。
饗応の儀式は、主従関係を再確認するためのもので、将軍と御家人が同席して飲食をすることで、その結び付きをより強固なものしていったといわれています。
『吾妻鏡』によれば・・・
1180年(治承4年)12月20日、源頼朝は新造された御所で三浦義澄の「垸飯」(おうばん)を受けています。
(参考:源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府)
その際、「御弓始」が行われ射手に次の者が選ばれました。
一番 下河辺行平 対 愛甲季隆
二番 橘公忠 対 橘公成
三番 和田義盛 対 工藤行光
その後、頼朝は「御行始」(おなりはじめ)として安達盛長邸を訪れています。
「御行始」というのは、将軍が有力御家人の邸宅を訪問し、饗応を受ける行事のことです。
「除魔神事」は、源頼朝が幕府において「御的始」「御弓始」と称して行った武家の事始めを起源としています。
~正月垸飯~
「正月垸飯」は、正月3が日に行われ、有力御家人が日替わりで担当しました。
「垸飯」を担当した者は、その後の「御行始」に同行することができます。
~養和元年の正月垸飯~
1181(養和元年)正月元旦の「垸飯」は、千葉常胤が担当しています。その際には3尺の鯉が献上されています。
~建久2年の正月垸飯~
頼朝が上洛をした翌1191年(建久2年)正月元旦も千葉常胤の担当ですが、右大将への昇進があったので、特に豪華な饗応だったようです。
贈物としては、次の物があげられています。
千葉常胤・・・剣
千葉胤正・・・弓箭
相馬師常・・・行縢(むかばき)
千葉胤盛・・・砂金
千葉胤頼・・・鷲羽(箱入り)
その他、千葉一族によって馬5頭が献上されています。
翌2日は、三浦義澄の担当です。
岡崎義実が弓箭、和田宗実が行騰、三浦義連が砂金、比企能員が鷲羽を献上し、三浦一族らによって馬が献上されています。
翌3日は、小山朝政でした。
下河辺行平が剣、小山宗政が弓箭、小山朝光が行縢、下河辺政能が鷲羽、小山朝光が砂金を献上し、馬5頭が献上されています。
~建久4年の正月垸飯~
1193年(建久4年)正月元旦の「垸飯」は、千葉常胤が担当しています。
大内惟義が剣、八田知家が調度、梶原景季が行縢を持参、そして、千葉胤頼が砂金、千葉常胤が鷲羽を献上し、相馬師常らが馬5頭を引きました。
~建久5年の正月垸飯~
1194年(建久5年)正月元旦の「垸飯」は、足利義兼が担当しています。
足利義兼が征箭弓馬、以下。里見義成が剣を献上しています。
~建久6年の正月垸飯~
1195年(建久6年)正月元旦の「垸飯」は、足利義兼が担当しています。
大内惟義が剣を持参し、弓箭以下の進物があったそうです。
翌2日は千葉常胤が、3日は小山朝光が担当しています。
さて・・・
これだけ見ていると頼朝は進物を受け取っているだけのようですが、実は頼朝からも臣下に被け物(かずけもの)を贈っていました。それが、どのような物だったのかはわかりませんが・・・。
~頼朝亡き後の「垸飯」は・・・~
1199年(建久10年)正月13日、源頼朝は亡くなります。
頼朝亡き後の「垸飯」は、千葉氏や三浦氏などの「垸飯」が少なくなり、次第に北条氏が独占していくようになります。
「垸飯」の後に行われていた「御行始」も、次第に「垸飯」への返礼という形に変化し、ほとんどが北条邸への御成となったようです。
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