別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2020年5月30日土曜日

伏見広綱の屋敷を破壊~頼朝と政子の夫婦喧嘩~


源頼朝


1182年(養和2年)3月、源頼朝の妻北条政子が懐妊します。

(参考:源頼家の誕生

すると・・・頼朝は、伊豆時代からの愛人亀の前を鎌倉に呼び寄せ、小坪の小中太光家の屋敷に住まわせています。

『吾妻鏡』によると6月1日のことのようです。

小坪は、由比ヶ浜に「みそぎ」に行くといって出かけるのに都合がよかったのだそうで・・・(参考:小坪路)。

亀の前は、器量がよいばかりでなく、心の柔和な女性だったので、前年の春頃から頼朝の寵愛が激しさを増したのだとか。

その後、頼朝は、小坪では遠いと考えたのか、飯島の伏見広綱の屋敷に亀の前を移しています。

密かに通っていたのでしょうが・・・



小中太光家とは・・・

石橋山の戦いにも参陣した中原光家のことです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

そんな幸せな時を送っている中の10月17日、政子と誕生した頼家が産所の比企ヶ谷から御所に戻ってきました。

すると、牧の方北条時政の後妻・政子の継母)が、わざわざ頼朝の浮気の次第を政子に話してしまいます。

激怒した政子は、牧の方の父牧宗親に広綱の屋敷を破壊するよう命じます。

そして、11月10日、広綱の屋敷は打ち壊されました。

広綱は、亀の前を伴って鐙摺の大多和義久の家に逃げ込んだそうです。


さて・・・頼朝はどうしたか・・・

政子の仕打ちに怒った頼朝は、12日に宗親を引き連れて義久の家を訪れ、広綱に事情を尋ねた上で宗親を詰問します。

宗親は弁明できず陳謝しますが、頼朝は許すことはできず、宗親の髻(もとどり)を切ってしまいました。

武士にとって髻を切られるということは最大の恥辱です。

宗親は泣く泣く逃げ帰ったそうです。

そして、頼朝は亀の前の所に泊まっています。


(葉山町)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

さてさて、この事件は、これでは終わりません。

頼朝は、14日の晩に鎌倉へ帰ります。

しかし、この日、頼朝の宗親への仕打ちに怒った北条時政が伊豆に引きあげてしまいます。

頼朝は、この行動を快く思わなかったようですが、どうすることもできないでいたようです。

ただ、鎌倉に残った北条義時を呼びつけて、なにやら話をしているようですが・・・。


ところが・・・

懲りない頼朝は、12月10日、亀の前を再び小中太光家の屋敷に住まわせています。

亀の前は、政子の嫉妬を恐れていたようですが、頼朝は亀の前の言葉に耳を貸しませんでした。


一方の政子は、12月16日、伏見広綱を亀の前を匿った罪で遠江国に流しています。

その後、この夫婦喧嘩がどのようになったのかは定かではありません。

(流された広綱はどうなったのでしょう・・・?亀の前は・・・?)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

(伊豆の国市)

仲が良さそうな頼朝と政子の像ですが・・・

すでに、頼朝には愛人がいたのですなぁ~。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝配流地

歴史めぐり源頼朝




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