別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年7月18日月曜日

補陀洛寺~鎌倉材木座の観音霊場~

平安時代の中期頃から浄土信仰が盛んになります。

はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めますが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになります。


補陀洛寺
1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として創建されたと伝えられています。
開山は、頼朝が伊豆の流人時代から交流のあったという
文覚
https://www.yoritomo-japan.com/page135fudarakuji.htm


「補陀洛」(補陀落)には、観音菩薩の浄土という意味があるそうです。

平安時代も後期になると、南の海には「補陀洛山」というのがあって、そこに行けば浄土の中で安楽できるという信仰が広まっていたといいます。

熱心な法華経信者だったという源頼朝は、補陀洛信仰にあわせて、鎌倉の東南に位置する海辺を観音霊場としたのでしょうか・・・。

補陀洛寺には、頼朝自作のものといわれる木像や、文覚が書いたとされる頼朝の位牌が残されています。

文覚の裸形像もあります。

また、平宗盛が最後まで持っていたという「平家の赤旗」が残されていることで知られています。
旗には「九万八万軍神」とあり、平清盛が書いたものといわれているそうです。



~補陀落渡海~

「補陀落渡海」とは、生きながら補陀洛浄土を目指して海に出ることです。

『吾妻鏡』は、1233年(天福元年)3月7日、下河辺行秀が補陀落渡海を行ったと伝えています。

行秀は、那須野の巻狩りで頼朝に大鹿を射るよう命じられますが、外してしまったことを恥じ、遁世していました。

智定房と名乗った行秀は、この日、30日分の食料を屋形船に積み、外から釘で密閉された状態で熊野灘から船出したといいます。

熊野は、西方の極楽浄土、東方の瑠璃浄土、南方の補陀洛浄土の地であるとされ、「蟻の熊野詣で」といわれるほどに参拝者が多かったそうです。

1218年(建保6年)には北条政子も熊野参詣に出掛けています。


8月には、樹齢150年ともいわれるサルスベリの古木が花を咲かせます。



補陀洛寺


鎌倉観音巡礼三十三ヶ所
https://www.yoritomo-japan.com/page134.html
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html