1256年(康元元年)11月23日、時頼は病のため、蘭渓道隆を戒師として最明寺で出家します(法名は「覚了房道崇」)。
以後、「最明寺入道」と呼ばれました。
執権職は、北条長時に譲られますが、これは、嫡子時宗(のちの八代執権)が幼いことから、代理として長時が執権職に就任したもので、政治の実権は時頼が握っていました。
※北条長時:北条重時の子
※時頼の執権辞任は11月22日
北条時頼廟 |
時頼は1263年(弘長3年)11月22日、最明寺で亡くなりました。37歳でした。
最明寺は、時頼の死後、廃寺となりますが、八代執権北条時宗によって禅興寺として再興されます。明月院は、その禅興寺の支院の一つです。
「春流高如岸 細草碧於苔 小院無人到 風来門自開」 北条時頼が最明寺で詠んだ詩です。 |
北条時頼墓 廟所の奥には、北条時頼のものと伝わる宝篋印塔があります。 |
明月院
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鎌倉手帳
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