陳和卿は、奈良東大寺の大仏再建に尽力した宋から来た僧で、1195年(建久6年)、東大寺大仏殿の落慶供養の折には、源頼朝の対面要請を拒否した人物としても知られています。
その陳和卿が、1216年(建保4年)6月、三代将軍源実朝に対面します。
伝説によると、陳和卿は涙を流しながら、「前世で、あなたは宋朝の医王山の長老で、私はその門弟でした。」と語ったといいます。
一方の実朝も、以前、夢の中に現れた高僧にも同じことを言われていたことから、その言葉を信じ、ついには宋へ渡ることを決定したといいます。
北条義時や大江広元などの反対にあったそうですが、11月24日、陳和卿に渡宋のための唐船の建造を命じます。
(藤沢市大鋸)
実朝の渡宋のための船の用材は、船玉神社のある大鋸から切り出されたと伝えられています。
船は翌年4月に完成しましたが、なぜか、進水に失敗し由比ヶ浜に朽ち果てて、実朝の夢は終わったと伝えられています。
鎌倉十二所の明王院の東側には、1212年(建暦2年)、実朝が父頼朝への感謝のために建てたという大慈寺がありました。
大慈寺には、1216年(建保4年)に宋の能仁寺から請来したという「仏舎利」が納められていました。
現在、円覚寺の舎利殿に納められているものです。
実朝の宋への憧れが強かったことを物語るものとしても貴重な仏舎利です。
源実朝が宋から苗を取り寄せて植えたという古木です。
この古木も実朝の宋への憧れを示すものとして貴重です。
言い伝えが正しければ、建長寺のビャクシンより古いことになります。