八代執権北条時宗の時代、中国を制覇した元が日本に服属を求めてきました。
しかし、日本はそれを断ったため、2度に亘って元に攻められることになります(元寇(蒙古襲来))。
最初に攻撃されたのは1274年(文永11年)のことでした(文永の役)。
元と高麗の連合軍が博多に上陸し日本軍は敗走しますが、夜中に暴風雨となり、元・高麗連合軍の戦艦が破損・難破し撤退したため助けられたと伝えられています。
翌年、1275年(建治元年)、元は杜世忠ら5人を日本に派遣して、再度日本の服属を求めますが、執権北条時宗は、杜世忠らを捕らえて鎌倉へ護送させ龍ノ口で処刑しました。
龍口寺の境内に建てられた刑場跡の石碑です。
片瀬では、大庭景親、北条時行などが処刑され、日蓮が処刑されそうになったとされていますが、その場所が同一の場所であったかどうかははっきりとしていません。
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片瀬の常立寺は、龍ノ口刑場で処刑された者を弔うために建てられたといわれ、元からの使者、杜世忠ら5名もここに葬られたと伝えられています。
~元使塚~
常立寺にある五つの五輪塔が杜世忠らの供養塔と伝わっています。
五輪塔には青い布が掛けられています。
青い布はモンゴルで「英雄」を意味するそうです。
平成17年に参拝した白鵬などのモンゴル人力士によって巻かれたそうです。
元使の杜世忠を殺したことで、元が再度攻め入ってくることは決定的となります。
執権北条時宗は、蒙古襲来への対応に苦慮し悩んだといいます。
そんなときに来日したのが無学祖元です。
祖元は悩む時宗に「莫煩悩」の文字を与えたといいます。
1281年(弘安4年)、元軍は再び日本に攻め入ってきました。
しかし、日本も石築地を築くなどの対策を施していたことから、元・高麗連合軍を海上に退かせることに成功します。
そして、再びの暴風雨によって元・高麗連合軍は大きな被害を受けて撤退しました。
翌年、北条時宗は無学祖元を開山に迎え、円覚寺を創建し、元寇の戦死者を弔いました。
そして、1284年(弘安7年)4月4日、北条時宗も34歳という若さで亡くなっています。