別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2010年12月14日火曜日

平家の滅亡


1184年(寿永3年)1月、源頼朝は正式に平氏追討の勅命を受けます。

一方、都落ちをした平家一門は、一時、九州太宰府まで落ちのびますが、徐々に勢力を盛り返し、かつて平清盛が夢みた都「福原」まで東進していました。


~後白河法皇の使者~

2月6日、福原で平清盛の三回忌の法要を営んでいた平家のもとへ、後白河法皇の近臣の使者が文書を携えて到着します。

文書には、

「和平交渉のための使者が8日に京を出て下向するから、武力行動をしないように」

という内容のものだったといいます。

平家方はこれを信じていたのですが、翌7日には源氏の総攻撃が開始されたといいます。


~一ノ谷の合戦~

生田ノ森からは源範頼が、一ノ谷からは安田義定が、そして、背後の山からは源義経が攻撃を仕掛けたことでは平家軍は大混乱となり、

多くの大将が討ち取られ、平重衡が生け捕りにされました。

討ち取られた大将の中には、16歳の平敦盛もいました。

これが、有名な「一ノ谷の合戦」です。

この合戦は、源義経「鵯越の奇襲攻撃」が中心に語られがちですが、合戦そのものが奇襲であり、悪く言えば「騙し討ち」であったと考えられます。

一ノ谷の合戦後、武士の横領・狼藉の禁止令の発布と、その実行を頼朝が行う旨の勅令が出されます。これによって、頼朝は全国の武士の頂点に立ちます。


~平氏滅亡~

一ノ谷の合戦で敗れた平氏は、屋島にのがれていました。

当初、頼朝義経を起用して平家を攻めようと考えていましたが、このころから後白河法皇の義経登用が目立つようになり、

ついに義経は、頼朝の許しなく検非違使に任官してしまいます。

怒った頼朝は、義経を解任して、範頼を総大将として西上させることとしました。
(この対応には諸説あるようです。)

9月に京を発った範頼の東国軍は、兵糧の調達に苦労しながら、翌年正月になって長門国に到達しています。

しかし、士気は衰え、侍所別当の和田義盛が「関東に帰りたい」などと言う始末であったといいます。

こうした状況の中で頼朝は、再び義経を起用することにします。

1185年(元暦2年)2月17日、義経は風雨のなか出帆して阿波国に渡り、19日の朝には讃岐国の屋島を襲撃します。

陸上からの攻撃を予想していなかった平家軍は不意をつかれ海上にのがれました。

義経は熊野別当湛増などの水軍を味方に引き入れ、平家を追いつめ、3月24日、ついに長門国の壇ノ浦で全滅させました。


義経が着用したという赤糸威胴丸鎧



一ノ谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦い
源義経






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