別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2022年12月26日月曜日
八幡太郎に一番近い武将:新田義重~徳川家康の祖?~
上野国の武将新田義重は、八幡太郎義家の孫。
源頼朝が挙兵した時は、頼朝に対抗して軍兵を集めるなど鎌倉幕府創設に非協力的だったようです。
そのため、新田氏は幕府での要職に就けなかったのだといわれているようです。
ただ、八幡太郎に一番近い者として尊敬され、義重が亡くなって間もない時に蹴鞠をする源頼家を北条政子は
「源氏の長老が亡くなって二十日も経っていないのに蹴鞠とは・・・」
と叱責したのだとか。
そして・・・
徳川家康は義重を祖と称したのだといいます。
2022年12月24日土曜日
浄瑠璃物語~源義経と浄瑠璃姫の伝説~
三河国の国司・兼高長者の夫婦には浄瑠璃と呼ばれる美しい姫がいた。
1174年(承安4年)、奥州平泉の藤原秀衡を頼るために京都を発った源義経が姫の住まいのある矢作宿に立ち寄ると・・・
姫の奏でる琴の音が聞こえてきた。
都を懐かしく思った義経は、携えていた笛「薄墨」をとって、琴に合わせて吹いたのだという。
そして、二人は惹かれあう仲に。
数日後、義経は奥州へと旅立つが、駿河国の吹上の浜で大病に。
義経を助けに行った浄瑠璃姫は再会を喜ぶのだが・・・
義経は再び奥州へと旅立ってしまう。
矢作に戻った姫は・・・
平家の世に源氏と関わったことで親から勘当され、庵に幽閉されてしまう。
義経との再会を心の支えにしてきた姫だったが、悲嘆にくれて菅生川(乙川)に身を投じてしまったのだという。
誓願寺
誓願寺は、浄瑠璃姫が住んでいた矢作宿にある寺。
義経が浄瑠璃姫に贈ったとされる「薄墨」が残されているらしい。
浄瑠璃寺
浄瑠璃寺(光明寺)は、浄瑠璃姫の庵があった場所に父兼高長者が建立した安西寺が始まり。
義経と浄瑠璃姫の画像と姫の守本尊の薬師如来が安置されている。
浄瑠璃姫の墓
浄瑠璃姫の庵は龍頭山にあったといわれ、岡崎城が築城されたことで安西寺は移転し、その場所は浄瑠璃曲輪と呼ばれたのだという。
浄瑠璃寺(光明寺)の南には浄瑠璃姫の墓といわれる塚がある。
浄瑠璃淵
浄瑠璃姫が身を投じたという菅生川(乙川)。
その堤防には句碑が建てられている。
句碑
「散る花に 流れもよどむ 姫ヶ淵」
成就院
成就院は、浄瑠璃姫の菩提を弔うために侍女の冷泉が建てた冷泉寺を始まりとする。
浄瑠璃姫の墓
(成就院)
安心院
安心院も浄瑠璃姫の菩提を弔うために建てられたのだという。
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2022年の大河ドラマ
2022年12月23日金曜日
浄瑠璃姫と源義経の伝説~鳳来寺~
東海道の矢作宿の長者・兼高は、子が授かるようにと婦人とともに鳳来寺に籠って祈願。
すると、満願の日、婦人の夢枕に白髪の老翁が現れて、
「望みどおりに子を授ける。
女の子が生まれたら浄瑠璃と名づけよ」
と告げたのだという。
間もなく婦人は身籠り、女の子が誕生して浄瑠璃姫と名づけられた。
すくすと育った姫は評判の美人となり15歳の春を迎える。
1174年(承安4年)、奥州平泉の藤原秀衡を頼るために鞍馬寺を出奔した源義経は、途中の矢作宿で兼高長者の家に宿を取った。
その夜の事。
浄瑠璃姫の奏でる琴の音が聞こえてきた。
その素晴らしさに引かれた義経が姫の琴にあわせて笛を吹くと、姫もまた義経の笛に引かれ・・・
いつしか二人の間に愛が芽生えた。
しかし、義経は奥州へと落ち延びる途中。
再開を約束して義経は旅立つが・・・
半年を過ぎても義経からの連絡がない。
「半年過ぎても私が戻らないときは、鳳来寺の千寿ガ峯で待つように」
と言い残していた義経。
その言葉を信じて浄瑠璃姫は千寿ガ峯に。
庵を建てて義経を待ち続けていると、義経が来るという噂が・・・
喜んだ姫だったが、道行く人に尋ねてみると、3日前ほどに通り過ぎて行ってしまったとのこと。
悲しんだ姫は庵のほとりで自害して短い一生を終えたのだという。
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2022年の大河ドラマ
2022年12月22日木曜日
流人源頼朝が信仰した寺院~鳳来寺・智満寺・慈光寺~
三河国の鳳来寺は薬師如来の霊場。
1159年(平治元年)12月、平治の乱で平清盛に敗れた源頼朝が匿われた寺なのだとか。
1185年(文治元年)、頼朝は、その恩に報いるため、梶原景時に命じて三重塔をはじめとする諸堂を建立したのだと伝えられています。
鳳来寺の参道石段は1425段。
頼朝の寄進とも。
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駿河国の智満寺は、771年(宝亀2年)創建と伝えられる天台宗の古刹。
1159年(平治元年)の平治の乱に敗れて伊豆国に流された源頼朝は、智満寺に参籠して源氏再興を祈願したのだと伝えられ、1189年(文治5年)には、千葉常胤に命じて本堂を再建したのだといiいます。
頼朝杉
智満寺には頼朝のお手植えといわれる頼朝杉が聳えていました。
残念ながら2012年(平成24年)に倒木してしまいましたが、2015年(平成27年)に頼朝杉の一部は弥勒菩薩像として蘇り、2022年(令和4年)には源頼朝の尊像が完成しました。
頼朝像は、頼朝が武家の都の中心に据えた鶴岡八幡宮に奉納される予定です。
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武蔵国の慈光寺は、平安時代には天台宗の別院となり七十五坊を擁した大寺院でした。
『吾妻鏡』によると・・・
伊豆の流人だった源頼朝が信仰し、安達盛長を遣わして署名入りの梵鐘を鋳造させたのだといいます。
また、奥州征伐の際には戦勝祈願の祈祷を命じています。
当時の別当は厳耀。
畠山重忠の伯父(大伯父とも)と言われています。
重忠の子重慶・円耀も別当を勤めたのだと伝えられています。
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2022年の大河ドラマ
2022年12月20日火曜日
北条泰時と栂尾高山寺の明恵~承久の乱~
『栂尾明恵上人伝記』によると・・・
承久の乱の時、栂尾の山中に朝廷軍の多く兵が逃げこんだとういう情報があったため、安達景盛が山中を探索し、明恵を捕えて六波羅に連行。
明恵の徳を聞いていた北条泰時は、驚いて席を退き、明恵を上席に奉った。
景盛は過ちをおかしてしまったと興ざめの様子だったのだという。
この時、明恵が泰時に語ったことは・・・
「栂尾山は、殺生禁断の地。
鷹に追われた鳥や猟から逃げる獣は、皆この山に隠れて命を繋いでいる。
敵を遁れて隠れている軍士も同じ。
情けもなく追い出せば、敵に捕えられて命を奪われてしまう。
例え、自分が咎めを受けることとなろうとも、そのような事をすることはできない。
私の師である釈尊は、前世で鳩に代って鷹の餌食となり、餓えた虎に身を与えた。
そこまで情けには及ぶはずもないが、隠してやれるのなら、袖の中にも、袈裟の下にも隠してやろうと思った。
今後も同じである。
この情けが幕府にとって面倒な事であると申すのであれば、即時に愚僧の首を刎ねられよ」
これを聞いた泰時は、頬に感激の涙を流し、事情も知らぬ東国の者が参って狼藉を働いたことを詫びた。
その後、明恵に帰依した泰時は、六波羅探題在任中に何度も高山寺の明恵を訪れているのだという。
1224年(貞応3年)6月13日、二代執権北条義時が死去すると、泰時は鎌倉に戻って6月28日に三代執権に就任。
泰時は、丹波国の一庄を高山寺に寄進しようとしたが、明恵は、「寺に所領などがあると僧たちが贅沢になり怠ける」として断ったのだという。
1232年(貞永元年)に泰時が制定した御成敗式目は、明恵の思想が強く影響していると言われている。
高山寺は、明恵が後鳥羽上皇より栂尾の寺域を賜って開いた寺。
真言宗の寺院で山号は栂尾山。
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鎌倉との繋がりを求めて!
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2022年の大河ドラマ
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