別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年9月26日月曜日

和田義盛の菩提寺~三浦:来福寺~




来福寺は、和田義盛が鎌倉の名越に創建した寺院。

和田合戦後、義盛ゆかりの和田の里に移され、さらに現在地に移されたのだという。


和田義盛像
(2019年「三浦市民」6月号より)


本堂には、室町時代の作と伝えられる和田義盛像が安置されている。







和田義盛


和田合戦


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2022年9月24日土曜日

源頼朝像と源実朝像が伝えられる甲斐善光寺


甲斐善光寺は、武田信玄上杉謙信との川中島の戦い信濃善光寺が焼失してしまうことをおそれ、信濃善光寺の本尊(善光寺如来)を甲斐国に移してきたことに始まります(1558年(永禄元年))。

創建時の伽藍は焼失してしまいますが、1796年(寛政8年)に再建された山門金堂は重要文化財に指定されています。









武田信玄が信州から引きずってきたという銅鐘が吊るされています。



甲斐善光寺の本尊は銅像阿弥陀三尊像。

信濃善光寺の本尊の前立仏として鋳造されたものです。








源頼朝は1187年(文治3年)、焼失して礎石のみとなっていた信濃善光寺の再建に着手し、1197年(建久8年)には自らも参詣したと伝えられています。

甲斐善光寺頼朝像実朝像は、信濃善光寺にあったもので、武田信玄が甲斐国へ移す時に持ち込まれたものです。

武田氏が滅びると、善光寺如来は各地を転々とした後、信濃に戻りますが、頼朝像実朝像はそのまま甲斐に残されました。



甲斐善光寺

信濃善光寺







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2022年9月23日金曜日

石和八幡宮~武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社:弓馬術の聖地~




笛吹市の石和八幡宮は、武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社。

武田信光は、甲斐源氏五代当主。

甲斐武田氏の二代当主。

石和荘に館を構え、甲斐武田氏の礎を築きました。




石和八幡宮は、弓馬術の聖地といわれています。

源氏が重んじた射法相伝の儀式はすべてここで行なわれていたのだと伝えられています。





武田流流鏑馬

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2022年9月22日木曜日

梶原家茂を殺害した土屋宗遠


『吾妻鏡』によると・・・

1209年(承元3年)5月20日、源頼朝法華堂梶原景時とその一族のための仏事が営まれました。

その理由は・・・

御所内で怪異な現象が起きたり、夢のお告げがあったからなのだとか・・・


『吾妻鏡』に不思議な現象が記録された後には何かが起こる!


八日後の28日、小坪から帰る途中の梶原家茂が和賀江の辺りで土屋宗遠に襲われ殺害されます。

家茂は梶原景時の孫。

宗遠は土肥実平の弟。

宗遠は家茂に年来の恨みを持っていたのだといいます。

家茂を殺害した後、すぐに御所へ行った宗遠は、和田常盛に太刀を預けます。

そして、侍所長官の和田義盛に預けられることに。

6月13日、宗遠が嘆願書を提出。

その内容は、

「頼朝様の時代から忠実に勤めてまりました。

一方、梶原家茂は謀反人・梶原景時の孫です。

奉公者と不忠者を比較するのは難しいですが、太刀を差し出したからといって、何故、囚われの身とならなければならないのでしょう」

和田義盛が将軍源実朝に取り次ぐと、嘆願書は筋道が立たないものでしたが、この日が頼朝の月忌にあたっていたため、特別に赦免されたのだとか。



和賀江嶋

梶原家茂が殺害されたのは和賀江の辺りは、現在の材木座海岸

和賀江嶋はこの時代にはありませんが、三代執権の北条泰時の時代に築かれた現存する我が国最古の築港です。



城願寺七騎堂
(湯河原町・城願寺七騎堂)


1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに大敗した源頼朝は、8月28日、主従七騎で真鶴岬から安房国へと渡るのですが・・・。

その時、頼朝に従っていたのが、安達盛長岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平田代信綱だったのだと伝えられています。





源実朝


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源実朝の暗殺








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2022年9月21日水曜日

源実朝の前でアオサギを射て許された吾妻四郎助光


吾妻四郎助光は、『吾妻鏡』に弓の名手として登場する人物。

1204年(元久元年)正月の御弓始めに和田胤長・榛谷重朝・諏方盛澄海野幸氏望月重隆とともに射手に選ばれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると・・・

1207年(建永2年)8月15日の鶴岡八幡宮放生会でのこと。

警護を命じられていた吾妻助光ら数名の者が任務を怠るという事態が発生。

急遽代わりの者が手配されたが、将軍源実朝の出発は大幅に遅れ、舞楽の奉納が夜になってしまい、実朝は最後まで観覧することなく還御したのだといいます。

8月17日、この事件を重くみた北条義時北条時房大江広元三善善信・二階堂行光は、任務を怠った者を詰問します。

厳しく問いただされた者たちは、

「身内に不幸があって喪に服していた」とか「病気で体調を崩していた」という返答をしたのだといいますが・・・

吾妻助光は理由を述べることができませんでした。

二階堂行光が

「武勇をかわれて採用されたにも拘わらず、その任務を怠るとは何事か」

と𠮟りつけると、助光は、

「晴れの儀式に鎧を用意しておりましたが、ネズミにかじられ破損してしまったので・・・」

と弁明。

行光は、

「晴れの儀式のために鎧を新調したのか?

警護の者がおしゃれをするものではない。

何故、先祖伝来の鎧を使用せず、新調の鎧を使おうとするのだ・・・」

と叱りつけたのだといいます。

そして、助光は出仕を止められることに。


それから3か月が経った12月3日、御所では酒宴の席が設けられ、北条義時大江広元が参加していました。

そこへ一羽のアオサギがやってきて寝殿の上に留まります。

不快に感じた実朝は、射落とすように命じますが、あいにくそれだけの腕を持った者がいませんでした。

すると、義時

「吾妻助光を呼び出しましょうか」

と申し上げると、実朝が承諾。

慌ててやってきた助光は・・・

衣服を逆さまに着ていたようですが、狙いを定めて矢を放ちます。

一瞬、的を外したようにも見えたようですが、サギが庭先に落ちてきました。

助光の放った矢は、鷹の羽を使用したもので、とても強いものでした。

その矢羽根をサギの眼にかすらせて生け捕りにしたのだといいます。

サギの左の眼からは血が少し出ていたそうです。

その妙技に感心した実朝は、出仕を許し、剣を与えたのだとか。








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