別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年7月21日木曜日

梶原景時弾劾の訴状が作成される!~梶原景時の変~


『吾妻鏡』によると・・・

1199年(正治元年)に起こった梶原景時の鎌倉追放で、中心として動いたのは三浦義村

10月27日、景時の讒言によって謀反を疑われた結城朝光の相談を受けた義村は、和田義盛安達盛長らを集めます。

そして、景時に恨みを抱いていたという中原仲業に訴状を起草を依頼しました。


仲業は、中原親能の家人だったといわれ、源頼朝の上洛をきっかけに下向したのだと考えられているようです。






翌28日、鶴岡八幡宮の回廊には

千葉常胤三浦義澄・千葉胤正・三浦義村畠山重忠小山朝政結城朝光足立遠元和田義盛・和田常盛・比企能員・伊賀朝光・二階堂行光・葛西清重・八田知重・波多野忠綱・大井実久・若狭忠季・渋谷高重・山内経俊宇都宮頼綱・榛谷重朝・安達盛長佐々木盛綱稲毛重成・安達景盛・岡崎義実・土屋義清・東重胤・土肥維平・河野通信・曽我祐綱・二宮友平・長江明義・毛呂季綱・天野遠景・工藤行光・中原仲業らが集結。


仲業が訴状を読み上げると、66名が署名。

訴状には

「鶏を養(か)う者は狸を畜(やしな)わず、獣を牧(か)う者は豺(やまいぬ)を育(やしな)わず」

とあったのだとか・・・。


訴状は、和田義盛と三浦義村が大江広元に託しています。




結城朝光


阿波局

三浦義村


梶原景時


梶原景時の変








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2022年7月20日水曜日

東大寺の僧兵に称賛された結城朝光と傲慢無礼に振舞った梶原景時


1195年(建久6年)3月12日、源頼朝東大寺大仏殿の落慶供養に参列したときの事。

門内に入ろうとした見物の僧兵達が警護の武士ともめ事を起こしてしまいます。

梶原景時がそれを鎮めようとしますが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となってしまいました。

頼朝は結城朝光を呼んで事態を収拾するよう命じます。

朝光が僧兵達の前に膝まづいて 「前右大将家の使者である」と言うと、僧兵達はその礼儀に感じて、まずは騒ぐのをやめました。

そして頼朝の意向を伝えます。

「この東大寺平清盛のために炎上し、礎石ばかりを残して灰塵と化してしまいました。

それには僧兵達が最も悲嘆したことでしょう。

源氏は、たまたま後援者となり、再建のはじめから供養の今日にいたるまで援助してきました。

そればかりか、仏道の修行を妨げる悪魔の障害を排除し、落慶法要のために数百里の道のり越えて、この大伽藍に詣でました。

僧兵達は、このことを何故喜ばないのでしょう。

武士であっても、仏道への帰依を思い、大きな事業にたずさわれた事に喜びを感じました。

知恵のある僧侶が何故秩序を乱し、自分達の寺の再興を妨げようとするのでしょう。

それは、とても不適当な考えですので、その理由を承りましょう」

これを聞いた僧兵達は、すぐに自らの行為を恥じ、後悔し、数千の僧兵が一斉に静かになったのだとか。

そして、勇士・容貌の美しさ・はっきりとした物言いに加え、ただ単に戦の計略に深く通じているばかりでなく、寺社での礼節も知っている使者に興味を抱いた僧兵達は名を尋ねます。

朝光は小山と称さず「結城七郎」と名乗って戻っていったのだとか・・・


東大寺大仏殿


東大寺大仏殿落慶供養

南都焼討と東大寺の再興 ~重源と源頼朝~


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


頼朝亡き後の1199年(正治元年)10月、梶原景時結城朝光を謀反の疑いありとして陥れようとします。

東大寺で面目を潰され景時は、朝光を憎んでいたという説もあるようです。



結城朝光


阿波局

三浦義村


梶原景時


梶原景時の変








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結城朝光の一万遍の南無阿弥陀仏と梶原景時の讒言


『吾妻鏡』によると・・・

1199年(正治元年)10月25日、将軍御所の侍所では、結城朝光が夢のお告げを受けたとして、正月に亡くなった源頼朝のために「一万遍の念仏」を唱えることを皆に勧めます。

そして、皆で念仏・・・

「南無阿弥陀仏」を唱和。

そのとき朝光は

「忠臣は二君に仕えずと申すが・・・

頼朝公が亡くなられたときに出家をとどめられたことを大変後悔している・・・」

と語ったのだとか。

頼朝の近くに仕えていた朝光の言葉に皆が涙を流したのだといいます。


しかし・・・

梶原景時は、「忠臣は二君に仕えず」と述べたことを源頼家への謀反として捉えらます。

それを朝光に知らせたのが阿波局

驚いた朝光は三浦義村に相談。

景時の失脚へとつながっていきます。



結城朝光の墓
(結城市:称名寺)


朝光は、1214年(建保2年)頃から関東での布教のため常陸国に草庵を結んでいた親鸞に帰依しています。

称名寺は、朝光が建てた念仏堂を起源。



結城朝光


阿波局

三浦義村


梶原景時


梶原景時の変








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2022年7月19日火曜日

梶原景時に奪われた侍所別当職~和田義盛~


『吾妻鏡』によると・・・

1180年(治承4年)11月17日、源頼朝和田義盛を侍所別当に補任しました。

何故、義盛だったのか・・・

8月の石橋山の戦いの後、安房国へ渡って頼朝と合流した義盛は、今後どうなるかわからない状況下で、侍所の別当にしてくれるよう頼んでいたのだそうです。


しかし、1192年(建久3年)、梶原景時に「一日だけその名を貸してくれ」と頼まれ、喪に服さなけれならない理由のあった義盛がそれを許すと・・・

そのまま別当職を景時に奪われてしまったのだとか・・・


ただ、義盛景時の二人だけで幕府の重職を決められるはずがなく、景時が別当となったのは、頼朝の意向だったと考えるのが妥当なのかも。

1200年((正治2年)正月20日、景時が滅びると、義盛は別当に復職しています。



和田義盛

梶原景時


梶原景時の変

梶原景時・景季の最期








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結城朝光は頼朝と寒川尼の子?~伊豆の頼朝の御落胤伝説~


小山政光・寒川尼像
(小山市)


結城朝光は、源頼朝の乳母を務めた寒川尼(寒河尼)が産んだ子。

頼朝から「朝」の字を与えられるほどに可愛がられました・・・。

そこで生まれるのが御落胤説。


一説によると・・・

頼朝が伊豆国蛭ヶ小島に流されていたときに寒川尼が懐妊(尼の娘とも)。

平家から追討されてしまうことを案じた頼朝は小山で出産させ、小山政光の四男として育てさせたのだとか。

信憑性はありませんが、結城氏は伝統的に源氏を称し、代々の当主は「朝」を通字(とおりじ)として用いています。

参考までに、徳川家康の次男結城秀康は、結城氏17代目の結城晴朝の養子となって結城を名乗ったようです。




結城朝光

寒河尼

小山政光


歴史めぐり源頼朝








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