別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年5月19日木曜日

鉢植えのヤマアジサイが見ごろを迎えています。鎌倉:光則寺2022/05/19



鉢植えのヤマアジサイが見ごろになってきました。









ニオイバンマツリ




光則寺のヤマアジサイ


日本の自生アジサイ展


光則寺







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鎌倉アジサイの名所
鎌倉のアジサイ



江ノ電でアジサイ

江ノ電とアジサイの風景


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鎌倉成就院のアジサイ参道2022/05/19




2015年(平成27年)から2017年(平成29年)まで改修工事の際に多くのアジサイが宮城県南三陸町に移植されてしまいましたが、それでも100株近く植えられているようです。












成就院のアジサイ


成就院








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鎌倉アジサイの名所
鎌倉のアジサイ


江ノ電でアジサイ

江ノ電とアジサイの風景



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源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘


源頼朝と対立して、1185年(文治元年)11月に京都を落ちて行方をくらましていた源義経

1186年(文治2年)の7月頃まで、比叡山に匿われていたことが判明したものの、その後は再び行方知れずになっていました。

しかし、9月20日、義経の郎党・堀景光が京都に潜伏していたところを比企朝宗に捕えられました。

景光の白状によって義経が興福寺に身を潜めていることが判明。

翌日、比企朝宗が数百騎を率いて興福寺の聖弘(しょうこう)の住坊を取り囲みますが、義経を見つけ出すことはできずに京都へ帰っています。



興福寺は、藤原氏の氏寺として創建された寺院で、武家不介入の治外法権を維持していました。

多くの僧兵を抱え、その強大な力で大和国を支配し、源頼朝も大和国に守護を置くことはできないでいました。

そういう寺院に武力をもって踏み込んだことで大きな騒ぎとなったようです。

12月25日には、別当の信円が自治権の侵害を朝廷に訴えていますが、一条能保が陳謝したことで収まったようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

興福寺義経を匿っていたことを知った鎌倉の頼朝は・・・

翌1187年(文治3年)、義経を匿ったとして興福寺の聖弘(しょうこう)を鎌倉に呼び出します。

聖弘は義経と師檀の関係にあって、義経のために祈祷していたといいます。

鎌倉に来た聖弘は小山朝光に預けられていましたが、3月8日、頼朝は直接の聖弘に面会します。

そして・・・

「義経は天下を乱す凶臣で、その行方をくらまし、朝廷からは処刑するよう求められている。

そのため、天下の人々が皆義経に従わないでいるのに、あなただけが義経のために祈祷を行っている。

しかも、義経に同意して何か企んでいるという噂も耳にするが、それはどうしたことか」

と尋問すると、聖弘は・・・

「義経があなたの代官として平家を追討するときに、義経とは祈祷の約束をしたので、それ以来誠意をもって祈祷を続けておりました。

これが報国の志ではないと言われるのでしょうか。

また、義経が関東から厳しく咎められて行方をくらましたとき、師檀の関係のよしみから奈良に来ましたので、一時匿い、頼朝様と和解するよう諫めた上で、下法師らをつけて伊賀国へ送り出しました。

その後は音信不通です。

祈祷は謀叛を祈ってのことではなく、義経を諫めて謀叛の心を宥めるもので、罪に問われるものではありません」

と答えました。

さらに・・・

「関東の今の無事は義経の武功によるものです。

しかし讒言を聞き入れて御恩と奉公の関係を忘れ、恩賞の地を取り上げてしまえば、逆心を抱くのは当然のことです。

早々に義経を呼び返して和解し、兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法です。

これは義経に味方して申したのではなく、天下の平穏を考えてのことです」

と答えました。

この聖弘の態度に感心した頼朝は、さっそく勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を命じたのだといいます。


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参考までに・・・

義経は、1187年(文治3年)2月10日、伊勢・美濃などを経て奥州平泉藤原秀衡を頼っています。

正室の郷御前と子も一緒でした。

一行は、山伏や稚児に変装していたのだといいます。






源義経

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源義経を匿った比叡山


1185年(文治元年)11月3日、源頼朝と対立して都を落ちた源義経

11月6日、九州へと船出しますが摂津国大物浦で難破した後、姿をくらまします。

11月17日には、義経の妾・静御前が義経と別れた吉野山で捕えられ、翌1186年(文治2年)3月1日、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られました。


静御前が頼朝の命で鶴岡八幡宮で舞っている頃、義経が京都に潜伏しているという噂が広まります。

『吾妻鏡』5月13日条にも、義経が叔父の源行家とともに京都に潜伏しているという噂や、比叡山に匿われているかもしれないという記事が載せられています。



比叡山延暦寺

延暦寺は、788年(延暦7年)、最澄によって開かれた天台宗総本山。


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畿内一帯に下った頼朝の厳命もあってか・・・

5月12日、源行家が和泉国小木郷の日向権守清実宅にいるという密告があり、北条時定、常陸坊昌明らが討手として向かって誅殺されています。

行家は源為義の十男。

源頼朝以仁王の令旨を届けた人物ですが、頼朝と対立し、壇ノ浦の合戦後は義経に近づき行動を共にしていました。


6月6日、義経の母・常盤御前が一条河崎観音堂の辺りで捕えられます。

『玉葉』によると、義経が岩倉(現在の京都市左京区)に潜伏していると証言したのだといいます。

一条能保は、義経が仁和寺や岩倉のあたりに隠れているという情報を得て梶原朝景、後藤基清らが逮捕に向かったが、その事実はなかったという報告を鎌倉にしています。

また、現在は比叡山にいるという噂があるとも報告しています。

(※一条能保は頼朝の妹婿。)


6月16日、大和国宇多郡で源有綱が発見され、北条時定と合戦した後、深山に入って自刃しています。

有綱は以仁王とともに平家打倒の挙兵をした源頼政の孫で、義経の娘あるいは養女を妻としていたのだという説もあるようです。

『吾妻鏡』にも、有綱が義経の婿だとする記述があります(1185年(元暦2年)5月19日条)。


7月25日、鈴鹿山に逃亡していた伊勢義盛が誅殺されます。

こうして探索は義経に近づいて行くように思われましたが・・・



仁和寺

仁和寺は、886年(仁和2年)、光孝天皇が「西山御願寺」の建立を発願し着工されたことに始まる。


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閏7月10日、鎌倉に到着した一条能保の報告によると、義経の雑用を務めていた少年・五郎丸が捕らえられ、義経が6月22日頃まで比叡山にいたことを白状します。

また、俊章・承意・仲教らの僧兵が、義経の庇護をしていることが明らかになります。

能保は、この事を天台座主全玄と慈円に伝え、後白河法皇にも奏聞したそうです。

(※慈円は九条兼実の弟。)

そして、義経の名は、九条兼実の子・良経と同じ呼び名であることから、義行(よしゆき)と改名したことが伝えられています。


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閏7月16日、鎌倉に到着した一条能保の報告によると、義経を庇護した僧兵を差し出すよう天台座主全玄に申し入れますが「すでに逃げてしまった」という返事だったとのこと。

それでも比叡山の僧兵が義経を匿ったということは重大な事件です。

山に兵が入るような事になれば、比叡山の仏教が滅びてしまうかもしれません。

後白河法皇は、閏7月16日、九条兼実をはじめとする公卿らに事態収拾を協議させ、比叡山の東塔西塔横川の末寺や荘園の全てに通知し、直ちに探し出して逮捕するよう命じています。

その結果、義経を匿った3人の僧兵が差し出されたとのこと。

それでも義経の行方は不明のままでした。


その頃、鎌倉では静御前が義経の子を出産。

しかし、生まれた子が男子だったため、頼朝の命によって由比ヶ浜に捨てられています。




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