別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年1月20日木曜日

満開の菜の花~二宮町:吾妻山公園~2022/01/20




吾妻山公園の満開の菜の花。

残念ながら富士山には雲がかかってしまいましたが・・・













恒例のイベント「菜の花ウォッチング」が開催されています。


吾妻山:菜の花







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

曽我梅林

あたみ桜

松田町の河津桜

頼朝桜まつり~鋸南町~

江の島ウインターチューリップ

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鎌倉:桜情報

鎌倉:梅の名所



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源氏VS源氏~敗れた木曽義仲~

義仲産湯の清水
(埼玉県嵐山町)


木曽義仲は源義賢の次男。

幼名は駒王丸。

1154年(久寿元年)、武蔵国の大蔵館で誕生したと考えられ、埼玉県嵐山町の鎌形八幡神社境内に湧き出す清水は、義仲の産湯に使用されたと伝えられています。

誕生の翌年、父の義賢が源義平に討たれると、駒王丸は畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国木曽へ逃れ、乳母夫の中原兼遠のもとで育てられます。


1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると義仲も挙兵。

1183年(寿永2年)3月には、頼朝と対立しますが嫡子義高を人質として鎌倉へ差し出して和睦。

その年の5月には、倶利伽羅峠の夜戦で平家軍を潰滅させ、7月には平家一門を都落ちさせて入京します。


倶利伽羅峠の戦い


しかし、後白河法皇と対立し、法皇は鎌倉の頼朝を頼ります。

翌1184年(寿永3年)、頼朝は、義仲追討のため源範頼源義経を派遣し、正月20日、範頼が瀬田から義経が宇治から京の義仲を攻めます。


瀬田の唐橋
(大津市)

宇治川先陣碑
(宇治市)

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範頼義経に攻められた義仲は、わずかな兵を連れて京を脱出しますが、近江国粟津で討たれました。

木曽義仲の墓
(大津市・義仲寺)


義仲寺

義仲寺は、義仲の愛妾・巴御前が墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられています。


木曽義仲の首塚
(京都:八坂の塔)

義仲の首は六条河原に晒された後、家臣によって葬られたのだと伝えられています。

八坂の塔には義仲の首塚があります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉の頼朝は、義仲を討つと、人質として鎌倉にいた義仲の嫡子・義高も殺害します。

木曽塚
(鎌倉・常楽寺)

常楽寺裏山にある木曽塚は木曽義高の墓と伝えられています。


清水八幡宮
(狭山市)

清水八幡宮は、義高終焉の地に建てられた社。






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鎌倉との繋がりを求めて。
奈良・京都

源義経をめぐる京都


歴史めぐり源頼朝







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
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特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

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梶原山~梶原景時終焉の地:静岡市~




1200年(正治2年)1月20日、梶原景時は上洛途上の駿河国清見関で在地武士の襲撃にあい、梶原山で自刃したのだと伝えられています。


梶原景時親子供養塔









☆ ☆ ☆ ☆ ☆

梶原景時の変

梶原景時・景季の最期


二代将軍源頼家

初代執権北条時政

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2022年1月19日水曜日

源義経の奥州下り

『平治物語』によれば・・・


奥州の金商人吉次が京へ上ったついでに鞍馬寺を参詣した時の事。

遮那王(源義経)は、吉次に奥州へ連れていってくれるよう頼みます。

吉次は、共をすることを約束します。

そこへ吉次の同道者が参拝にやって来ます。

源頼政の家人で下総国の深栖頼重でした。

遮那王は自分が源義朝の末子で、鞍馬寺に預けられていることなどを話し、下総へ連れていってくれるよう頼むと、頼重は承諾しました。



鞍馬寺


そして、1174年(承安4年)3月3日、遮那王は鞍馬寺を出奔。

その晩、鏡の宿に到着し、夜のうちに元服して源九郎義経と名乗ります。


源義経宿泊の館跡


黄瀬川の宿に着くと、義経は兄の頼朝のいる北条に寄ろうとしたようですが、頼重が「後で手紙で知らせたらどうか」と言うので通り過ぎたのだとか。


下総に至った義経は、一年ほど深栖光重(頼重の父)のもとで暮らしていました。

しかし、平家に知られてはまずいので奥州を目指すことにします。

この時、義経は伊豆へ赴いて頼朝と対面し、奥州へ下ることを報告します。

頼朝は、

「亡父・義朝の妾で上野国の大窪太郎の娘が、奥州へ下って藤原秀衡の郎等の佐藤基治の妻となり、二人の子をもうけ、今は後家となっている。そこを訪ねるとよい」

と義経にすすめ、手紙を与えたのだとか。


北条氏邸跡
(伊豆の国市)


奥州へ向かった義経が尼を訪ねると、子の継信と忠信の兄弟を共に付けてくれました。

さらに多賀の国府を越えたところから、吉次の案内で藤原秀衡のいる平泉に辿り着いたのだそうです。


平泉館跡


なお、義経は、奥州へ下る途中で上野国の松井田に一泊しますが、宿の主人だったのが、後の伊勢義盛だったのだとか。

そして、吉次は堀景光となったのだとか。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

参考までに・・・

『吾妻鏡』によると、義経が1185年(元暦2年)に書いた「腰越状」には、諸国を流浪し、あちらこちらに身を隠していた事や、都から遠く離れた国で、土地の人や百姓に仕えて暮らしていた事などが記されています。

おそらく、奥州へ下る時の事を書いたのでしょう。






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源義経

奥州平泉


源義経伝説をめぐる


源平合戦



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