別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2024年8月23日金曜日

鎌倉検定過去問~石橋山の戦いと北鎌倉


(問)平氏打倒の旗挙げの直後、[   ]の合戦に敗れた源頼朝は、海上で三浦氏と合流して、房総半島に逃れた。再度、関東の豪族を集めて勢力を立て直し、鎌倉に入り、[   ]に屋敷を構えた。



1159年(平治元年)の平治の乱平清盛に敗れた後、伊豆国に流されていた源頼朝は、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をします。

平家の目代山木兼隆を討ち、相模国へ進軍しますが、石橋山の戦い大庭景親伊東祐親らの軍に敗れてしまいました。



石橋山古戦場


石橋山で惨敗した頼朝は、一時、箱根権現に身を寄せますが、真鶴から安房国に渡って再起。

千葉常胤上総広常らを従えて鎌倉入りを果たします。

鎌倉に入った頼朝は、父義朝の屋敷跡(現在の壽福寺辺り)に御所を構えようとしますが、狭いことや岡崎義実が義朝のために建てた祠があったことなどから、大倉の地を選びました。

当初の頼朝の御所は、山ノ内の首藤兼道の屋敷を移したものだといわれています。

安倍晴明の護符の貼られた屋敷で火事に遭ったことがないということで選ばれたということです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


(問)鎌倉において禅宗寺院が集中するのはどこか。


鎌倉時代、北鎌倉は山内荘と呼ばれていました。

1180年(治承4年)、源頼朝が鎌倉入りした時は山内首藤経俊の所領でしたが、経俊が石橋山の戦いで頼朝に敵対したことから没収され、土肥実平に預けられます。

そして、1213年(建保元年)の和田合戦で地頭だった実平の孫惟平が和田義盛に味方したため、北条義時のものとなりました。

そのため、北条氏ゆかりの禅寺が建ち並びます。





鎌倉検定


石橋山の戦い


山内荘と北条氏








☆ ☆ ☆ ☆ ☆


源頼朝挙兵


伊豆山神社

箱根神社

三嶋大社


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8月23日・24日は板橋地蔵尊大祭~頼朝も信仰した地蔵尊なのかも?~




8月23日、24日は小田原市板橋の旧東海道沿いにある板橋地蔵尊の大祭。

この日に参ると亡くなった身内と瓜二つの顔の人に出会えるのだとか・・・。



地蔵堂では、地蔵尊に蝋燭の供養を行ってもらえます。

上の写真の柱に「おろー」と書かれていますが蝋燭のこと。

※初日の23日には旧東海道沿いに多くの露店が並びます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~箱根の金銀の地蔵尊~

板橋地蔵尊は、ものと箱根の白銀山に祀られ、日金山の地蔵尊とともに信仰されていたのだといいます。

日金山の地蔵尊は源頼朝が信仰し、模刻像を造立して鎌倉に祀りました。

横須賀の東漸寺には、鎌倉にあった日金地蔵が安置されています。




頼朝と箱根とは深い関係にあります。

もしかしたら、板橋地蔵尊頼朝が信仰した地蔵尊なのかもしれません。









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伊豆・箱根



源頼朝挙兵


三嶋大社


伊豆山神社

箱根神社


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2024年8月21日水曜日

鶴岡八幡宮の鳥居の呼び方


鶴岡八幡宮の参道・若宮大路にある三つの鳥居の呼び方は・・・



由比ヶ浜にあるのが一の鳥居



段葛が始まる所にあるのが二の鳥居



鶴岡八幡宮入口にあるのが三の鳥居


しかし、現在とは逆の呼び方をしていた時もあったようです。

つまり、一の鳥居が「三の鳥居」と呼ばれていたということです。


1685年(貞享2年)の絵図


これは、徳川光圀が編纂させた『新編鎌倉志』所載の絵図ということですが、一の鳥居は「大鳥居」、二の鳥居は「二鳥居」、そして、三の鳥居が「一鳥居」として描かれています。

本文には・・・、

「三所に石の鳥居あり。赤橋の前の鳥居より間四町十五間半にして又鳥居あり。二の鳥居と云ふ。二の鳥居より間、六町四十五間にして鳥居あり。三の鳥居也。是を大鳥居と云ふ」

と記されているようです。

※赤橋というのは太鼓橋のことです。

『新編鎌倉志』の他にも、『鎌倉三五記』(紀伊国屋文左衛門)、『東海道名所絵伝』、『鎌倉詣』といった書物にも同じ内容の記載があるようです。




鎌倉検定


鶴岡八幡宮



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2024年8月19日月曜日

鎌倉宮に祀られている護良親王




鎌倉宮は鎌倉で悲運の最期を遂げた護良親王を祀る社。


護良親王は、後醍醐天皇の皇子。

梶井門跡(現在の三千院)に入室し、天台座主(比叡山延暦寺の貫主)となって大塔宮と敬称されていました。

1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕のための元弘の乱を起こすと、護良親王は還俗して倒幕運動に参戦。

足利高氏(尊氏)、新田義貞の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡します。

しかし、足利尊氏と対立して、1334年(建武元年)11月15日、鎌倉に幽閉されてしまいました。




土牢に押し込められた護良親王は、妃の南の方以外の付き添いは許されなかったそうです。

鎌倉宮には、護良親王が幽閉されていたという土牢が残されていますが、このような岩窟ではなく、土蔵造りの牢屋だったともいわれています。


護良親王は、約9ヶ月間にわたって幽閉生活を送ります。

そして、1335年(建武2年)7月、北条高時の遺児時行が反乱を起こし、鎌倉を守っていた足利直義軍を破ります(中先代の乱)。

時行が護良親王を奉じることを恐れた直義は、7月23日、淵辺義博に命じて護良親王を殺害しました。




親王の首は理智光寺の僧によって葬られたのだと伝えられています。


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~妹の用堂尼は東慶寺へ~


東慶寺五世の用堂尼護良親王の妹。

親王の菩提を弔うために東慶寺に入山したのだといいます。



~子の日叡は妙法寺を建立~

(妙法寺)

妙法寺開山の日叡は、護良親王と南の方の子。


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大塔宮の碑
(比叡山延暦寺)

比叡山延暦寺には2度にわたって天台座主となった護良親王の碑が建てられています。

護良親王は「比叡山の大塔に入室したことから大塔宮とも呼ばれる」といいますが・・・

📎大塔宮と呼ばれた護良親王~なぜ大塔宮なのか?~



(吉野山)

吉野山は討幕の挙兵をした護良親王が本拠とした地。

吉野山では、村上義光が護良親王の身代わりとなって自害しています。





鎌倉宮の例大祭は8月20日。

護良親王が最期を遂げた7月23日を現在の暦にすると8月20日らしい。




比叡山延暦寺

吉野山


鎌倉宮


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2024年8月18日日曜日

鎌倉検定過去問~鎌倉権五郎景政の大庭御厨と源義朝の鎌倉之楯


1144年(天養元)〔   〕は〔   〕が寄進したという〔   〕の荘園である大庭御厨へ侵入した。当時〔   〕は現在の〔   〕付近にあったとされる「鎌倉之楯」を拠点に東国で活動していた。


源頼朝が鎌倉の地に新邸を造営しようとしたとき,当初の候補地だったが,土地が狭く造営を断念したとされる父源義朝の館「鎌倉之楯」は,今のどこ付近と考えられるか。


現在の壽福寺付近にあったとされる「鎌倉之楯」を拠点に東国で活動していた 〔   〕は,現在の藤沢・茅ヶ崎市一帯にあたる〔   〕御厨に再三侵入したという。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


大庭御厨


1104年(長治元年)頃に成立したという大庭御厨は、現在の藤沢市から茅ヶ崎市にまたがる相模国最大の寄進地系荘園。

鎌倉権五郎景政が先祖から受け継いだという大庭荘を開発したもので、『吾妻鏡』によると、1117年(永久5年)10月23日に伊勢神宮に寄進されました。

1144年(天養元年)には、源義朝大庭御厨の鵠沼郷に侵入し、大規模な収奪を行ったことでも知られています。

当時の大庭御厨の下司(管理者)は大庭景宗だったのだと伝えられています。

※景宗は、大庭景義・景親・景久兄弟の父。

※大庭氏については、景政の子景継が大庭御厨を領したことから「大庭氏」を名乗ったという説もありますが、詳細は不明です。


皇大神宮
(藤沢市)

皇大神宮は、大庭御厨の総鎮守として崇敬を集めた社。




義朝の鎌倉之楯は亀谷(壽福寺付近)にあったといわれています。

1180年(治承4年)10月6日、先鋒を畠山重忠、殿(しんがり)を千葉常胤がつとめた源頼朝の軍が相模国に入ります。

翌日、鎌倉に入った頼朝は、鶴岡八幡宮(由比若宮)を遙拝し、父義朝の旧跡を訪れています。

鎌倉七口の一つ亀ヶ谷坂は、鎌倉入りの際に使った道と伝えられます。





鎌倉検定


壽福寺


御霊神社


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