別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年2月15日木曜日

打毬~光る君へで藤原道長が活躍する馬術競技~


「光る君へ」第7話では、藤原道長打毬(だきゅう)で活躍するようですが、

打毬は、平安時代に端午の節会の際に行われた馬術競技。

その起源はヨーロッパに伝えられた馬術競技の「ポロ」とを同じといわれています。

打毬は唐で盛んに行われていたもので、日本には弘仁年間に渤海国を通じて伝えられたとする説が有力となっています。





越前国には、渤海の使節団(渤海使)を迎えるため施設「松原客館」がありました。

松原客館は、敦賀の気比の松原付近にあったといわれています。

928年(延長6年)に渤海は滅亡しますが、松原客館は渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたようです。





平安京の鴻臚館は、渤海使のために建てられた迎賓施設。

松原客館に滞在していた渤海使は、都からの使者に伴われ、深坂峠を越えて塩津浜から舟で琵琶湖を渡り、大津から鴻臚館に入りました。

822年(弘仁13年)に渤海国の国使が豊楽殿打毬を行ったという記録が残されています。




打毬(だきゅう)



紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









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清少納言



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香炉峰の雪は簾を撥げて看る~清少納言と白楽天~


雪がとても高く降り積もった日、中宮・藤原定子清少納言

「香炉峰(こうろほう)の雪はどうでしょうか?」

と尋ねます。

清少納言は、女房に御格子をあげさせ、みずから御簾を高く上げると、定子は満足気に笑ったのだとか。


「香炉峰雪簾撥看」

これは白楽天(白居易)の詩の一説。

「香炉峰の雪景色を、寝室でくつろぎながら、すだれを高くはね上げて見る」

香炉峰は、中国江西省九江県西南にある廬山の北峰。


清少納言は白楽天の詩を定子に演出して見せたのでした。

(『枕草子』~雪のいと高う降りたるを~)


📎清少納言の歌~雪の山を作ったときに詠んだ歌~




清少納言


次回の光る君へ
打毬(だきゅう)



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2024年2月14日水曜日

泉涌寺の大涅槃図特別公開と清少納言・源頼朝・北条政子・北条泰時・蘭渓道隆・願行…


「仏涅槃図」は、仏教の開祖・釈迦が沙羅双樹の下で、頭を北にして、西を向き、右脇を下にした姿と、十大弟子をはじめとするさまざまな生き物が嘆き悲しむ様が描かれた図。



清少納言が隠棲したという東山月輪に建てられた泉涌寺の大涅槃図の大きさは、縦16m、横8mで日本最大級の巨幅。

2024年3月8日(金)から3月17日(日)の間、仏殿に掲げられた大涅槃図が特別公開されます。

境内には清少納言の歌碑もあります。




泉涌寺は皇室の菩提寺。

源頼朝の要請を受けた宇都宮信房が月輪大師に寺地を寄進したことで伽藍が完成したのだといいます。

後鳥羽上皇・順徳上皇をはじめ、北条政子北条泰時も月輪大師について受戒しています。

鎌倉に建長寺を開いた蘭渓道隆は第三世月翁智鏡との出会いが縁で来日しました。

第六世願行は、東寺を再興し、高野山の復興に尽力。

鎌倉に泉涌寺派の法燈を伝えた僧でもあり、長楽寺安養院)・大楽寺理智光寺を開き、伊勢原の大山寺を再建しました。

覚園寺開山の智海心慧は、願行から密を受けたといわれ、浄光明寺の愛染明王像、玉泉寺の胎内不動は願行作と伝えられています。




清少納言の父・清原元輔の邸宅は、泉涌寺の塔頭・今熊野観音寺付近にあったといわれています。

今熊野観音寺の北には、清少納言が仕えた藤原定子の陵墓(鳥戸野陵)があります。


泉涌寺即成院

泉涌寺の塔頭・即成院には屋島の戦いで活躍した那須与一の石造宝塔があります。




清少納言


紫式部



鎌倉の涅槃会は2月15日
涅槃会


次回の光る君へ
打毬(だきゅう)



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藤原忯子~入内から1年も経たずに亡くなった弘徽殿女御~


藤原実資の『小右記』や赤染衛門『栄花物語』によると・・・

花山天皇に入内した藤原忯子は、懐妊しても里下がりを許されず、懐妊5か月にしてやっと里(実家)へ帰ることが認められたのだといいます。

しかし、里に戻った忯子の容体は悪化。

にもかかわらず、花山天皇は忯子に会いたいがために無理に参内させます。

忯子の父為光は、泣きながら花山天皇に訴えて、忯子を里にもどしたのだとか・・・

そして、懐妊7ヶ月後の985年( 寛和元年)7月18日に忯子は亡くなります(17歳)。


📎藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?



法性寺

法性寺では、忯子の四十九日法会が営まれました。


法住寺

法住寺は、989年(永祚元年)に藤原為光が建てた寺。

985年(寛和元年)に亡くなった妻と娘の忯子の菩提を弔うために建立したのだと伝えられています。




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