別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
2026年9月22日火曜日
鎌倉の源氏館は亀ヶ谷にあった?
鎌倉は、源頼朝が鎌倉入りする前から源氏ゆかりの地。
頼朝の父義朝の屋敷は亀ヶ谷(現在の壽福寺)にあったようですが、それ以前の源氏館は?
頼朝の先祖で河内源氏二代棟梁の源頼義は、平直方から鎌倉の地と屋敷を譲り受けたのだと伝えられています。
その屋敷は何処にあったのか?
『天養記』によると、義朝は「鎌倉之楯」と呼ばれる拠点を先祖から受け継いるようです。
ということは、平直方の館も源頼義館も亀ヶ谷にあったということなのでしょうか?
壽福寺門前から鉄ノ井までの窟小路は、かつては朝比奈峠を越えて六浦津にいたる幹線道路の一部として機能していました。
この道が敷かれたのが、平直方が房総半島で起きた平忠常の乱を鎮圧するため、鎌倉の館に兵や物資を集めていた1028年(長元元年)頃という説があるようです。
だとすると、兵や物資調達の起点は亀ヶ谷だったのかも?
2026年9月21日月曜日
2026年9月20日日曜日
源頼朝が日金地蔵を祀った地蔵堂(松源寺)
明治の神仏分離令が出されるまで、鎌倉には、鶴岡八幡宮の供僧の菩提寺だった松源寺がありました。
伝承によると・・・
源頼朝が伊豆の流人時代に信仰していた日金山の地蔵尊を模刻させて安置した地蔵堂が始まり。
本尊の地蔵菩薩は運慶の作だったのだとか。
その場所は、鉄観音の西、窟堂の山の中壇。
現在の「鎌倉市川喜多映画記念館」と「旧川喜多邸別邸」の敷地内と考えられています。
2024年(令和6年)末から2025年(令和7年)の川喜多映画記念館の南側で行われた発掘調査では、石敷き遺構が発見されいますが、松源寺に関連するものという可能性も。
明治の神仏分離により廃寺となった松源寺の地蔵尊は、一時、長谷寺に安置されていたようですが、昭和のはじめ頃に横須賀の東漸寺に移されています。
東漸寺の日金地蔵は鎌倉二十四地蔵の一つ。
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2026年9月19日土曜日
2026年9月18日金曜日
旧川喜多邸別邸(旧和辻邸) 秋の公開2026~一般公開・特別公開~
ヨーロッパ映画を日本に紹介した映画事業家・川喜多長政の別邸が公開されます。
10月10日(土)・11日(日)
10:00~16:00
入場は無料。
ただし、建物内は土間までの入場となります。
邸内を観覧したい方は特別公開で。
特別公開は・・・
10月31日(土)
11月1日(日)
11月3日(火・祝)
10:00~16:00
(最終日は15:00まで)
特別公開は観覧料が必要です。
一般300円
小・中学生150円
(鎌倉市民は証明書提示で無料)
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2026年9月16日水曜日
流鏑馬の的~鶴岡八幡宮例大祭 小笠原流流鏑馬~
小笠原流流鏑馬で使われる的は、一尺八寸角(55cm)の杉板。
的の中心までの高さが六尺(1.82m)となるように青竹に挟みます。
板的に矢が当たると「パン!」と激しい音がして木っ端微塵に割れますが、この割れ方がきれいなほど縁起が良いとされています。
的は三つ設けられますが、昔は、一から三までの的の当たり外れで、早稲、中稲、晩稲の出来を占ったのだとか・・・
的は、板の角を上下にして菱形になるように挟まれていますが、その理由は?
「的を割れやすくするため」などの説があるようですが、残念ながら明確な説明がなされている資料はないようです。
流鏑馬の埒~鶴岡八幡宮例大祭 小笠原流流鏑馬~
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の長さは140間(254.54m)。
馬場に設けられた柵を「埒」(らち)と呼ばれます。
的側は「男埒」(おらち)と呼ばれ、高さは三尺五寸(約106cm)。
反対側は「女埒」(めらち)と呼ばれ、高さは二尺八寸(約84cm)。
埒の幅は弓一丈・七尺五寸(2m27㎝)。
男埒・女埒と呼ぶ理由は・・・
陰陽道(おんみょうどう)における「陽」と「陰」の思想に由来しているのだとか。
古来より武術や神事は、左を「陽」(男・火・動)、右を「陰」(女・水・静)」とする「左陽右陰」(さようういん)という考え方に基づいた作法によって行われてきました。
日本の伝統文化や儀礼では、「左陽右陰」に基づく「左上位」(左側の方が格上)というルールが取り入れられています。
たとえば、京都の伝統的な「京雛」では、左に男雛(向かってみると右)、右に女雛(向かって見ると左)に飾られます。
流鏑馬では「陽」である進行方向の左側に的が設けられます。
そのため、的側が「男埒」、反対側が「女埒」と呼ばれるようです。
高さの違いは・・・
「的側の高い埒によって馬の走路を安定させる」などの説や、「男=陽」「女=陰」だから、男埒は高く、女埒は低いという説もあるうようですが、明確な理由は不明です。
この画像は、平安時代の『年中行事絵巻』に描かれた騎射の様子ですが、的側の埒が高く設置されているようです。
ということは、源頼朝が鶴岡八幡宮で流鏑馬を行うようになってから考案されたものではなさそうです。
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