河内源氏の基盤を築いた頼信・頼義・義家は「源氏三代」と称されます。
頼信は藤原道長の四天王の一人に数えられ、房総半島で起こった平忠常の乱を鎮めて源氏の武名を天下に轟かせました。
二代頼義は平直方から鎌倉の地を譲り受け、鎌倉を東国支配の拠点としました。
前九年の役後には鎌倉に京都の石清水八幡宮を勧請して由比若宮を創建。
三代義家は後三年の役を平定。
朝廷からは私闘と判断されて恩賞が与えられませんでしたが、義家は自らの私財をはたいて家来へ恩賞を与えて「武神」と崇められました。
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東国の武士団と深く結びつき、武家の棟梁の地位を決定づけた源氏三代ですが・・・
義家の没後は、内紛や不祥事によって朝廷や摂関家からの信頼を失ってしまいます。
一時、鎌倉を拠点に東国武士団と強力な軍事基盤を築いた六代目の義朝が信頼を回復させますが・・・
義朝は1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れて命を落とし、子の頼朝も伊豆に流されて河内源氏は再び滅亡に危機に。
そして、清盛一族(平家・伊勢平氏)の全盛の時代に。
亀谷館
(イメージ図)
義朝は、幼い頃に東国へ下向。
安房国の丸御厨に住んだ後、上総国へ移って上総氏の庇護を受けていたことから「上総御曹司」と呼ばれていました。
成人してからは相模国の沼浜亭(現在の逗子市)を拠点に活動。
のちに先祖ゆかりの鎌倉の亀ヶ谷に拠点を移し、東国における武士団の組織化と自身の勢力基盤の拡大を図りました。
亀谷館跡には、壽福寺が建てられています。
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平治の乱後の河内源氏は、七代棟梁となるはずの頼朝は伊豆国の流人となってしまいますが・・・
義朝が築いた東国武士団との強い絆は残されていました。
1180年(治承4年)、頼朝が源氏再興の挙兵をすると、かつて義朝に従っていた東国武士団が大挙して頼朝に味方。
先祖が残した鎌倉に入ります。
鎌倉を本拠地と定めた頼朝は、由比郷にあった鶴岡八幡宮(由比若宮)を鎌倉の中心地に遷座して街づくりの中心に据えました。
1185年(元暦2年)には壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。
頼朝は父義朝の武力基盤を用いて河内源氏を武士の頂点に返り咲かせています。
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