別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2025年9月27日土曜日

運慶と鎌倉検定


(鎌倉検定過去問)
運慶が笑いながら彫ったことから像も笑っているように見えると言い伝えられる、圓應寺の本尊は何か。


圓應寺の閻魔大王

圓應寺閻魔大王像は、閻魔大王に生き返らせてもらった運慶が彫ったものなのだとか。

延命寺の阿弥陀如来像は、圓應寺の閻魔大王を彫ったあまりの木で作られたとも。


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運慶は奈良の興福寺を拠点に活動した仏師。

奈良仏師の中でも運慶らは「慶派」と呼ばれますが、慶派は奈良仏師の傍流で、運慶の父康慶からはじまる仏師集団。

奈良仏師の嫡流は源頼朝が鎌倉に呼んでいます。


(鎌倉検定過去問)
雪ノ下の大御堂にあった〔  〕は、〔  〕が父親の供養のために創建し、奈良から仏師〔  〕を招いて、黄金の〔  〕像を造らせて安置し、盛大な儀式を行ったと伝えられる。

1185年(文治元年)、源頼朝は父義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立すると、奈良仏師の成朝を鎌倉に呼びよせて本尊の阿弥陀如来を造立させました。

頼朝が奈良仏師の中から成朝を選んだ理由は、成朝が藤原道長の時代に活躍した定朝の嫡流だから。

当時、奈良仏師で位階を与えられていたのは、運慶の父康慶のみでしたが、それでも嫡流に拘った頼朝は成朝を選びました。

その後、成朝は・・・

1194年(建久5年)に興福寺金堂の「弥勒浄土」の造仏に携わったようですが、間もなく亡くなったのかと思われます。

運慶は・・・

1196年(建久7年)、東大寺大仏殿の虚空蔵菩薩と増長天を造立。

1203年(建仁3年)、東大寺南大門の金剛力士像を造立。

1212年(建暦2年)、興福寺北円堂の本尊の弥勒如来坐像、肖像彫刻として日本彫刻史上屈指の名作といわれる無著・世親菩薩立像などを造立。


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運慶の真作とされている仏像の半分は東国にありますが、残念ながら鎌倉には残されていません。


願成就院の運慶仏

浄楽寺の運慶仏



(鎌倉検定過去問)
阿弥陀如来の信仰に熱心な下働きの法師に盗みの疑いがかかり、左の頬に焼印を押されたのに跡が残らず、法師の身代わりとなって頬に焼印の跡がついたという伝説がある、「頬焼阿弥陀」を本尊とする寺はどこか。

光触寺の本尊は阿弥陀三尊像

中尊の阿弥陀如来像は運慶作で『頬焼阿弥陀縁起』(国重文)に登場するの阿弥陀仏なのだと伝えられています。

『新編鎌倉志』によると、運慶は1215年(建保3年)に源実朝の招きで鎌倉に下向。

その時に彫ったのが光触寺の阿弥陀如来像で、脇侍の観音は快慶、勢至は湛慶(運慶の子)の作なのだとか。

頬焼阿弥陀が彫られたという1215年(建保3年)頃からの運慶は、源実朝北条政子北条義時などの依頼による造仏に携わりました。

『吾妻鏡』によると・・・

1216年(建保4年)、源実朝の持仏堂の本尊・釈迦如来

1218年(建保6年)、北条義時の大倉薬師堂(覚園寺)の薬師如来

1219年(承久元年)、北条政子の依頼により勝長寿院の五大尊像を手掛けています。

これらの仏像は現存しませんが・・・

1216年(建保4年)に実朝の養育係だった大弐局の発願で造立された金沢の称名寺大威徳明王は現存しています。



運慶


鎌倉検定









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運慶 祈りの空間

運慶願経


東大寺

東大寺南大門


興福寺

興福寺北円堂


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