1333年(元弘3年)2月、討幕計画が露見して隠岐に流されていた後醍醐天皇が隠岐を脱出して船上山で挙兵。
3月下旬、幕府は名越高家と足利高氏(尊氏)を鎮圧に向かわせますが、4月27日、名越高家は赤松則村と戦った久我畷の戦いで討死。
両軍の戦いを静観していた足利高氏は、自らの領地だった丹波篠村へと向かい反幕の挙兵をします。
そして、5月7日、六波羅探題を攻撃して滅亡させました。
『太平記』によると・・・
高氏は病いを患っていた自分に度重なる派兵の催促をしてきた北条高時に憤っていたのだとか・・・
(六波羅蜜寺)
六波羅探題は、1221年(承久3年)の承久の乱後に設置された鎌倉幕府の出先機関。
(米原市:蓮華寺)
蓮華寺は、六波羅探題北方の北条仲時をはじめとする従士432名が自刃した寺。
南方の北条時益は道中で野伏に襲われて討死したのだと伝えられています。
建仁寺の勅使門は、六波羅にあった平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したと伝えられている。
東福寺の六波羅門は、六波羅探題にあったもの。
六波羅蜜寺の周辺には、平清盛をはじめとする平家一門の屋敷が建ち並んでいました。
鎌倉幕府が朝廷を監視するために設置した六波羅探題の役所は、平清盛邸を改築したものだったのだといいます。
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鎌倉との繋がりを求めて。